生活空間を見渡すと、ごく質素倹約が浮上するような景色の我が家である。
それでも積もり積もった余計なもの(ゴミ)に、ため息をつくことがある。(片付けは明日にしましょう)と先延ばしにすることが多いけど、ポカポカ陽気の日には我に返って掃除に専念することも無きにしも非ず(消極的…)
古いものばかりではなく、昨日買ってきたものでも(どう考えても使い勝手が悪い)と処分を余儀なくする場合もある。(授業料)の名目で処分。
片付けたかと思うと、再びたまっている不用品。
ため息をつきながら格闘している。まさに不用品と戦って処分を果たした時など《勝利》した気分になる。
《シンプル生活》これに尽きる。
なのに、ああ…《業だろうか》
・・・。
『同族意識』
魚が直立しているが、魚としての生態運動にこのようなポーズはない。
水平線の手前に球体があり、その近くに二人の人影がある。
水平線は物理的真理であり、球体は精神的真理を具象化したものだと思う。
遠く見える二人(物理的現実)は永遠普遍の真理の前では粒子のような存在であり、直立の魚(精神的な意図)も大きく見えるが海洋という拡がりのなかでは単なる一存在に過ぎない。
魚の直立は虚偽として懐疑されるべき仮定の提示であり、球体もまた真理の抽象化ゆえに非存在物である。
二人の人間と水平線(海洋)は実在の現象である。
この対比の混在、存在と非存在の共存、換言すれば《矛盾・不条理》の光景は非理性的であるとして否定されるべきものであるが、一元化(同族/Family)として肯定する《自由》もあるのではないかと、詩情をもって密やかに提示している。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「さうさう、ぼくは耳には塗らなかった。あぶなく耳にひびを切らすとこだつた。こゝの主人はじつに用意周到だね。」
☆字の図りごとは、弐(二つ)を接(つなぐ)趣(考え)にある。
図りごとの要は、異(違い)を修(整え)知(心に感じ取ること)である。
とにかく父は、こう答えるのでした。わたしは貧乏になったことで泣き言を言っているのではございません。商売上で失ったものぐらい、わけなくとりもどせるつもりです。
☆宿命をひっくり返す。たとへ零落しても、全てを失ったとしても、再び簡単に取り戻すことが出来ます。