『9つの雄の鋳型』
作品を確かめると確かに9つである。ところが9つである必然性が欠如している、ただ単に任意の数であれば敢えて9つという必要はない。
雄、と明言しているが、根拠が不明である。雄と言ったから雄に違いないという論法である。
鋳型というのは、型の内部に、なにかしらの液体を注ぎ入れ凝固させるものという認識である(鋳物の鋳造)。だから、外観の形態は問題外であり、それらの差異を外観をもって提示するなどというのは、意味不明である。
《9つ、雄、鋳型》という3つの単語は結びつかず、首を傾げるばかりの徒労であり、空中分解せざるを得ない言葉と作品との関係である。
まことしやかに描かれた9つの形、ガラス板、鉛線、鉛箔の使用。無機質/硬質なものの変態(液体~個体)そして破損(ひび割れ)・・・意味の消失。平面化された鋳型に何を見いだせるだろうか。
デュシャンは、言葉の特質である伝達手段の機能を失わせている。
そして、表現されたものは、現実の物にあたかも即した類似性を感じさせるが、以って非なる物へと質を変容させている。
《無への挑戦》である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
中ではふつふつとわらつてまた叫んでゐます。
「いらつしやい、いらつしやい。そんなに泣いては折角のクリームが流れるぢやありませんか。へい、たゞいま。ぢきもつてまゐります。さあ、早くいらつしやい。」
「早くいらつしやい。親方がもうナフキンをかけて、ナイフをもつて、舌なめずりして、お客さま方を待つてゐられます。」
☆宙(宇宙)の教(神仏のおしえ)を究める。
説(はなし)は較(比べて)留める。
総て真(まこと)の法(神仏の教え)である。
舌(言葉)の法(神仏の教え)の他意がある。
父は、こういう、あきらかに無意味とわかる約束をみやげに帰宅してくるのでした。それは、まるできょうもまた祝福をたんまりもって帰ってやるんだと言わんばかりの様子でした。
☆父は先祖にかかる明らかに無意味な確信を背負っていました。それは、再び一族の苦しみが多く見えるにもかかわらず、満ち足りた幸福を持ってくるかに見えました。