今日は月イチの「七宝焼き」のサークル日。
「転倒のため眼鏡は破損し、唇も切りました…。足首もねん挫したようで痛くて今日は行かれません」とは先月の電話。
90才になられたサークルの講師の言葉に切なさが過った。
数日前には
「今月は、何とか行かれると思います」と仰って下さったけれど、この無情の雨。
今日は年に一度の食事会。ご出席を、是非にもお願いしたい・・・けど。
お洒落な先生のお姿に感化されつつ続行してきたこのサークルも、いよいよ・・・なのかな。
降り始めた雨を恨めしく眺めている。
『階段を下りる裸体』
カシャカシャッと、音がするようなイメージがあり、連続・形の分解によって継続の時間を切り取っているが、この時間は停止したままである。
『階段を下りる裸体』である必然性は希薄であり、滑稽なほどに無意味である。裸体と言うには肉感が欠如し、階段と言うより滑走に近い斜線であるゆえ、一種の機械的装置を想起させる。
『階段を下りる裸体』というタイトルゆえに『階段を下りる裸体』であるとイメージを結びつける。現にそうかも知れなが、そうでないかもしれない。タイトルは命題化している。
階段を下りる裸体である。
そうは見えない。
しかし、そうであるかもしれない。他の何物にも見えず、他の要素を見いだせないのだから。
裸体(肉体)も、階段(物質/機能性)も、それらしく在ることを放棄している。それですらなく、抽象化した画面からは無音の響きが聞こえてくる。
対象を見る視点は拡散し焦点を消失させる。すなわち《在るが、無い》のである。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
「呼ばうか、呼ばう。おい、お客さん方、早くいらつしやい。いらつしやい。いらつしやい。お皿も洗つてありますし、菜つ葉ももうよく塩でもんで置きました。あとはあなたがたと、菜つ葉をうまくとりあはせて、まつ白なお皿にのせる丈です。はやくいらつしやい。」
☆故に個(一つ)の規約である法(神仏の教え)がある。
葬(死者を葬る)新しい遷(場所が移る)の際(きわ)が要(かなめ)である。
縁(つながり)の質(内容)は済(すくい/救済)が要であると吐く。
新しい帖(書き物)である。
もちろん、わたしたちは、一日じゅうすき腹をかかえていました。そのくせ、わたしたちがお金を工面することによってほんとうに実現できた唯一のことは、父にいくらかの希望と喜びを味わわせてあげたということだけだったんです。
☆もちろん、わたしたちはずっと渇望していました。わたしたちのせんぞは多くの金を入手しもてなしたことは広く知られています。父(宿命)は先祖の良心、希望と喜びを持ち続けられるようにしたいと思ったのです。