百均のお店へ行くのは楽しい。いくら買っても百円だから買い過ぎたと思っても…まぁ許容範囲で納まる。
ダイソー、キャンドゥ、シルク…いろいろ回って商品を確認する。絶対お得もあれば、残念なこともある。でも断然どこよりも面白くて楽しい。
歩道橋まで上がるエレベーターのボタンを押したら近くにいたご老人も同乗。
「今日あたり天気も良くて散歩には最適ですね」
「ほんとうに」
「まぁ、わたしも百円ショップに行くだけなんですよ」と言うと、
「ボクもそうです」とご老人。
百円ショップは老若男女、憩いの場とも化している。品数が多いから「おやっ」と思う物に出会うトキメキがあり、それが安価と来ているから、ストレスも感じない。
昨日は(ふわふわ粘土)を買ったけど、軽くて手も汚れないという優れもの。
他にも、飴や飲料や調味料(アヒージョって何?)とか、ペンケースも買った。
何度でも幾度でも遊びに行きたい百均である。
『再開』
植木鉢の草花のシルエットが、草原に立つ一本の木の光景に変換されている。
植木鉢の傍らには、三個の鳥の卵が入った巣が置かれている。
光は射しているが、背景は漆黒から薄茶へと変化するベタである。
異形の複合、イメージの継続。卵から孵化/成鳥をイメージすることは可能である。ならば、植木鉢の草花から草原や樹々を想像することも可能ではないか。
生物には継続する時間のサイクルがあり、空に浮かぶ雲が三態をもって地球に億年の歴史を重ねているように、全ての生物には継続の時間と変化が余儀なくされている。
見識または認識は、持続あるいは変化するイメージの断片の推移を、再構成することも可能である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「あゝ、細かいとこまでよく気がつくよ。ところでぼくは早く何か喰べたいんだが、どうも斯うどこまでも廊下ぢや仕方ないね。」
☆済(救う)鬼(死者の魂)は総て化(形、性質を変えて別のものになる)に嘱(委ねられている)。
詞(ことば)から漏れる化(教え導くこと)の思いは、法(神仏の教えである。
お赦しさえいただけたら、そんなものはみなどうでもいいのです。〈しかし、いったい、なにを赦してほしいと言うのかね〉というのが、お城の返事でした。
☆赦してさえいただけたら、死は重要ではありません。
しかしなにを赦してほしいというのかね。と言うのがお城(死界/本当の死)の返事でした。