〔片岡直子先生の授業〕
詳細なご教授、痛み入ります・・・。本当に親切叮嚀なご指導に背中を押されている。
その旨を申し上げると「私もそのようにしていただいたんですよ」と。(先生の先生は宮崎二美枝先生?)
わたしは少しボォーとした性質なので、先生のアドバイスを聞き逃しているかもしれない(勿体ない)
昨日は下書きした画に彩色、あっという間の昼食をはさんだ数時間でした。
片岡先生はじめスタッフの皆様、ありがとうございました。
※サークルを運営してくださっている市の職員のヴァルさん(奥泉さん)が、今季をもって退職なさるとのこと。短期間お世話になっただけですが、とても素敵な方で優秀さやお人柄は尊敬に値する印象がありました。残念です。横浜市の方でお仕事を続けられ、(紙芝居とも関わりがあるようです)とのことですが、重ね重ね残念です。なにか支柱が欠けてしまったような気がします。
『花嫁』
この絵を見て、『花嫁』を想起する人は、おそらく皆無である。
花嫁の条件ともいえる《初々しく華やかであり、恥じらいのある女の人》の要素がまるで感じられない。
ではなぜ『花嫁』というタイトルをつけたのだろう。
『花嫁』という肉感(有機質)はなく、むしろ無機質な機械的なパーツの接合である。しかもよく見ていくと、必ずしも連結した仕組みではなく、無意味な交錯であり、重力を考えると崩壊を免れないような不思議に脆弱な成り立ちをしているし、陰影も光点が不明である。
この意味不明な不思議さがデュシャンの意図である。
あたかも実在するような、実在しているものを描写したような印象がある。しかし、それは印象にすぎず何か幻影めいた虚空の浮遊物という答えに突き当たってしまう。
『花嫁』≠『花嫁を描いたとされる作品』、言葉は必ずしもイメージに結びつかず無空に帰してしまう。
言葉=イメージではなく、別々の存在であり、そうであると確信してることへの一石かもしれない。
虚空に遊ぶデュシャンの、真剣極まる仕事である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
そのときうしろからいきんり、
「わん、わん、ぐわあ。」といふ声がして、あの白熊のやうな犬が二疋、扉をつきやぶつて室のなかに飛び込んできました。鍵穴の眼玉はたちまちなくなり、犬どもはううとうなつてしばらく室の中をくるくる廻つてゐましたが、また一声
「わん」と高く吠えて、いきなり次の扉に飛びつきました。
☆照(あまねく光が当たる=平等)を吐く。幽(死者の世界)を兼ねている。
字に必ず秘があり、質(内容)が注(書き記されている)。
秘は個(一つ一つ)を検(調べ)決めていくと現れる。
霊(死者の魂)を兼ねた質(内容)を注(書き記している)。
解(バラバラにすると)逸(隠れた)章(文章)があり、講(はなし)が配(割り当てられている)。
字を比べると、秘(ひみつ)がある。
そうなれば、だれよりもびっくりするのはアマーリア自身だろう、しかし、いまはまだいっさい秘密で、これだけは固く内緒にしておいてくれなくてはならない、というようなことをわたしたちにわからせようとするのですが、それは見るも辛いような光景でした。
☆大きく目を開き、アマーリアを見て、しっかり尽力すれば、近いうちにアマーリアを救済できるだろう、そして誰よりも彼女自身が驚くだろう。しかし、まだ秘密であり、厳しく警戒すべきである。