続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『Ⅲ-1-1 自分の方へ向かう犬1』

2015-09-27 07:02:57 | 美術ノート
 少なくとも具体性を持った作品である。しかし、100%即理解可能というのでもない不可思議さがある。

 一体何に埋もれて顔を出しているのだろう。前作に《泳ぐ犬》というのがあったが、犬が顔を出している面には凹みがある。水平であるはずの水面に凹みはあるか…。
 必然性をもって円形の凹みを犬の手前に掘っているこの光景。

 もし地面だとしたらこの犬は瀕死であり、致命的な埋没である。この円形の窪みは何を意味しているのだろう。水流だろうか、このような渦ができる現象などがあるのだろうか。

 「自分の方へ向かう犬」、自分は犬の手前に存在しているわけである。換言すれば、自分の手前にこの渦(難所)があると言える。
 犬の背後の切れ込み、犬のずっと手前の切れ込み(自分に近い)は、何を意味しているのだろう。時間かもしれないが決定の根拠はない。そこここの傷は、自分と犬の対峙する時空の何らかの欠如(不安など)なのだろうか。

 犬が水面(あるいは地上)から隠蔽されているとは考えにくい。向かっているのであれば、生きているし行動している、であればやはり「泳ぐ犬」をイメージしてもいいかもしれない。
 地上を走る犬との相違は、大きな困難の最中にいるということである。《不自由さを圧して自分に向かう犬》は、そのまま自身の姿でもある。


 犬の手前にある《溝/凹み》は気温差でできる水流の渦であれば巻き込まれる危険を孕んでいる。
 超えることの難題を制覇できるだろうか、劇的なシーンの展開予告における振動は、確かに起動し増幅しつつある。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)

『城』2096。

2015-09-27 05:52:12 | カフカ覚書
そのころのぼくは、夕方ちょっと散歩に出るくらいの骨折りでどんなことでもやってのけられると思いこんでいた。ところが、もともと実現不可能だとわかったとき、それを彼のせいにして、恨みにおもったんです。


☆当時、先祖の氏族はちょうどそこですべてが終わる時期かもしれないと思っていたのです。そして不可能であることは、いつまでも不可能だと言われ、それを彼のせいにして恨みに思ったのです。

若林奮『Ⅱ-4-d1』

2015-09-26 06:36:14 | 美術ノート
 心理的なドローイング。
 わたし達は地上の人であり、地上で生活をしている。しかし、世界は水平に見える社会や限りない天空のほかに、地下という見えない領域をも有している。

 見えないということは、確信を持てないことであり、不安の温床でもある。この下には何があるのだろう? 誰しもが抱く疑問は物理や化学の分野で証明、あるいは探求されているから観念的には肯ける。
 しかし、地上に風が吹くように、地下の世界にも何かが蠢いているのではないか。
 少なくとも静止はない、すべては流動している。世界全体が変容している。その渦中に人類という生物も共存しているのであれば、地下を覗く心理は至極当然なことである。


 スケッチは地層を調べるという物理的根拠を求めているわけではなく、あくまで心理的な眼差しで地の底を覗いている。ボーリング調査ではないが、垂直に見下ろした眼差しの先には確信の欠如が見えるばかりではないか。
 観察者はこの地上に立っているが、不変の安定が保障されているわけでない。この地上は潜在的な不安に満ちている。

 スケッチに描かれた垂直に深く掘られた穴には、泥・砂・岩石…水脈もあるかもしれない。地殻はほんの70キロメートルくらいで…マントル・コア・外核・内核へと続いている。外核は流動しているから地震波は伝わらないし、地球磁場が逆転していた時期もあるという不可解な地の底(地球)。


 二人の人間が膝をついて眺め下している地下である地の底。
 存在者は水平に眺め渡した山河ばかりか、垂直方向である上下、天空や地下にも囲まれている。その振動の真っただ中に生息している人である観察者。
 存在の視点としての支点に感じ得る空気の振動は、人によって在るのではなく、周囲の振動によって人が在るのだという対等な関係である。

 人は常に自然に対峙・共存している。(見えない地下という世界をも…)


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)

『銀河鉄道の夜』90。

2015-09-26 06:27:44 | 宮沢賢治
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」すぐみんなが、続いて叫びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いてゐるかもわからず、急いで行きすぎようとしましたら、そのなかにカンパネルラが居たのです。


☆常に惹きつける鬼(死者)の俗(世間一般)の教(神仏のおしえ)の釈(意味を解き明かし)、普(あまねく)救う考えが挙(すべて)である。

『城』2095。

2015-09-26 06:21:24 | カフカ覚書
彼は、まえに一度ぼくをひどくがっかりさせたことがありましたが、あれは、彼の罪というよりは、ぼくのつみだったんです。ぼくが当地に着いたばかりの、まだ頭の整理もできていなかったころの出来ごとだった。


☆確かに先祖の汚点にひどく失望しましたが、むしろ、あれは彼の罪というよりは特殊な罪だったのです。拘留の立場で混乱していたころに起きたのです。

若林奮『Ⅲ-3-11 飛葉と振動』

2015-09-25 06:46:32 | 美術ノート
 飛葉とはどういう意味だろう、飛葉でなければならなかった必然性はどこにあるのだろう。

 葉が飛ぶ…葉が飛んでくる…葉が飛ぶという現象は、つまりは落葉である。その葉の終末は死を意味する。もちろん植物は再生の芽を出し、その循環を繰り返しながら成長していく。その過程を早送りで視界に納めることが出来るなら、それは観察者との間隔において一つの振動という現象を露わにするに違いない。

 葉である必然性は、人工物でない自然の賜物であることに因している。あるがままの自然の中の存在物として『葉』を選択したと思われる。
 観察者の時間(人生/生存)における対象物としての選択である。
 落葉樹は、ほぼ一年の周期、常緑樹も葉の交代がないわけではない。葉から樹木、樹木から森へと広がる世界(光景)に観察者の高揚していく気持ちが伝わってくる。

 緑は光合成によって酸素を放出する、観察者はその酸素で生命をつないでいく。この大いなる振動の揺れは見えない、しかし確実に大気の中で循環している運動である。


 視覚と緑(樹木/森)そして呼吸と光合成。この関係は未来永劫続いていく存在の根拠であり、地球という大地の上の欠くべからざる生存の大前提である。


 作家は存在の根拠を突き詰めて「葉」を一つの選択肢としたのだと思う。
 存在者の立ち位置に巡る風は緑を孕んでいる。生命の秘密はここにあり、その振動は、あくまで曖昧である。なぜならその曖昧さこそが雰囲気であり、振動だからである。

 対象物の模索ではなく、対象物との関係における空間の揺れに執着した活動は、静かなる生命歓喜のような気がする。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)

『銀河鉄道の夜』89。

2015-09-25 06:30:09 | 宮沢賢治
「川へ行くの。」ジョバンニが云はうとして、少しのどがつまったやうに思ったとき、
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」さっきのザネリがまた叫びました。


☆千(たくさん)の講(はなし)を運(めぐらせている)。
 照(あまねく光があたる=平等)の志(思い)は、常に基(根本)の記としての教(神仏のおしえ)である。

『城」2094。

2015-09-25 06:17:13 | カフカ覚書
そして、そのために、バルナバスに助けてもらおうとおもっているのです。ぼくの希望の多くは、彼の肩にかかっています。


☆そして、バルナバス(北極星=死の入口)は、わたしを助ける義務がある。わたしの希望の死は、バルナバス(北極星=死の入口)にかかっています。

若林奮『緑の森の一角獣座』

2015-09-24 06:44:56 | 美術ノート
『緑の森の一角獣座』
 緑の森の中に一角獣座があるとは思えない、当然比喩なわけだけれど、どういう意図なのだろう。

 一角獣座、名前だけは聞いたことがあるけれど、確認したことがない。星座は4等星以下の星ばかり。
 星座板で見ると、オリオン座のベテルギウスと小犬座のプロキオン、大犬座のシリウスの冬の大三角の真ん中を淡い銀河が流れていて、その中にというかそれを跨いであるのが一角獣座ということらしい。

 星の卵(グロビュール/胞子)の集まりであるバラ星雲やハッブルの変光星雲やハーシェルが「天上で最も美しいもの」と述べた二重星・三重星がある天文愛好者にとっては興味深い星座であるらしい。(『星座ガイドブック』藤井旭・著/誠文堂新光社刊・参照)


 とにかく、裸眼では確認が難しい幻の星座である。
 それが緑の森の中にあるという。つまりは、在るけれど、見えない(確認が難しい)聖地ということだろうか。

 深い緑、視覚全体を覆うかの緑。緑の持つ生命の鍵。癒されること以上に生命の源としての神秘が潜んでいる緑は、一角獣座にも等しい生命誕生の秘密の振動が感じられるということかもしれない。
 詩の領域を孕んでいる、この雰囲気の持つ微妙な揺れ。作家の視界を被い、吹く風の匂いとともに再び還ってくる緑の幻想。

 緑の変移・・・脈々と繰り返しながら、なお瑞々しく生命の連鎖をつなげていく。緑と観察者との共鳴、緑の前に立ち、緑に包まれるときに起動する神秘めいた振動は、森の中に確かに存在する。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)