「あゝしまった。ぼく、水筒を忘れてきた。スケッチ帳も忘れてきた。けれど構わない。もうぢき白鳥の停車場だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんたうにすきだ。川の遠くを飛んでゐたって、ぼくはきっと見える。」
☆推しはかる答えの某(なにがし)は、懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)謀(はかりごと/計画)の講(はなし)であると吐く。重なる態(ありさま)は常であると吐く。重ねて現れる千(たくさん)の縁(かかわりあい)は秘(人に見せないように隠す)件(ことがら)である。
「あるいはね」と、オルガは言った。「もちろん、あなたがどういう意味でおっしゃっているのか、わたしにはわかりかねますけれど。もしかしたら、ほめて言っていらっしゃるのかもしれませんね。だけど、官服のことですが、これこそ、バルナバスの心配の種のひとつなのです。そして、わたしたちは心配ごとをともにしていますから、わたしの心配の種でもあるのです。
☆「もしかすると」とオルガ(機関・仲介者)は言った。もちろん、なたがどういう意味で言っているのか知りません。もしかしたら、それどころか、ほめているのかもしれません。だけど、虚報の力のことですが、これこそバルナバス(北極星/生死の転換点)の先祖の心配なのです。そしてわたしたち共有の心配なのです。
山の上に置かれた岩、しかもこの絵において岩は山頂の尾根に在る。どの山の頂上よりもさらに高く聳え立っている巨岩石、有り得ない光景である。というのは、岩は樹と異なり大地に密接に結びついていないからである。
神秘的・・・神の領域である。
主なる神はとこしえの岩だからである。
わたしのほかに神があるか。
わたしのほかに岩はない。(『イザヤ書』より)
神に対する恐れと敬虔。
《ガラスの》という修飾がある。ガラスの特質には何があるだろう。
第一に、可視光線に対して透明性があり、良く見えること。
第二に、壊れやすいこと。(「ガラスの地球を救え」とも)
そして、逆に見えにくいことの例えにも使用される。(「ガラスの天井」など)
透明なまでに熟知され崇められている信仰(神の存在)、しかし、見える形に刻むな(「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」『出エジプト記』より)とも言っている。
とこしえ(永久)に神の姿を見ることは適わない。存在するものであるが、見えにくく、見えないものである神は、「とこしえの岩である」と抽象化している。
しかし、マグリットは秘かに《壊れるものである/ガラス》と含ませているのではないか。
鍵、Key…これが答えである。要害(守りやすく険しく攻めにくい場所/砦)に聳え立つ巨岩石は、存在しているが、存在を危ぶまれるような神秘的な有り様である。
これらの条件を踏まえた光景が、マグリットの(神に対する)解答なのではないか。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
ところがカンパネルラは、窓の外をのぞきながら、もうすっかり元気が直って、勢よく云ひました。
☆双(二つ)の我意を含む記である自記は、逝(人が死ぬこと)を運(めぐらせている)。
「そいつは、みごとな観察だ」と、Kは言った。彼は、オルガよりもまじめに解していたのである。「うがった見かたです。役所の決定のしかたは、そのほかにもまだ若い娘と共通したところがあるかもしれないな」
☆「それは先祖のよい観察です」とKは言った。彼はオルガ(機関/仲介者)より厳格に考えていたのである。この決定は権力に関係があるかもしれない。
この作品(1930年)を描いた後(1936年)に『透視』という卵を見て成鳥を描くという作品を創作している。
マグリットには、常に考えていた《生死、起源と未来》という基本的な想念がある。
DNAを辿るとアフリカのお母さん、あるいは幾つかの始まりの因子が論究されているが、人類の根源、始まりの始まり…そして尽きることなく連鎖していくであろう生命の根拠を思考すると、やはり女体の神秘に行き着くのかもしれない。
顔(頭部)・胸部・腹部(陰部)・膝上・脚(足)・・・切断された各部の意味は何だろう。残酷でもあるこの提示は鑑賞者に曝しているという印象を受けるし、鑑賞者の方も一歩退くという冷めた距離感がある。
額に掲げるという行為は、象徴性がある。しかし、なぜ各部位を切り離す必要があったのか。鑑賞者は当然、その部位をつなげて一個の女体として完成させる。切り離すということは「死」を意味するが、この場合、なぜ死を想起させないのだろう。
明らかに生きている、しかし、死んでもいるのだという提示に気付くことはない。こちらを見ている見開いた眼(まなざし)、なによりも直立しているという条件は死をイメージさせない。
各部位は、単なる対象物のように描かれている。女体を想起させるが女体を否定している。
この作品は、《切り離されてはいるが、女体であることは当たり前である》という想念(印象・イメージ)を覆すものである。
情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。(マタイによる福音書より)
女体とセックスには深い結びつきがある。これを罪とするならば、生命の連鎖、歴史は続行しないし、人類は滅びるばかりである。しかしこの作品に情欲をいだくだろうか。
情欲を遮るものとしての静かなる否定。
『永遠の明証』とは、女の誇り、尊厳の明証ではないか。『生命が存続することの神秘はここにある。しかし、その眼によって犯され得ないものでもある』という立証。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
カンパネルラは、なぜかさ云ひながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいといふふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何かわすれたものがあるといふやうな、をかしな気持がしてだまってしまひました。
☆薀(奥義)の照(あまねく光があたる=平等)の信仰である。
照(あまねく光が当たる=平等)を惹きつける果(結末)の謀の記は字にある。
それ以上くわしいことは、知りようがありませんし、たとえ知ることができたとしても、ずっと後になってからのことです。当地には、こんな諺があります。もしかしたあもうご存じかもしれませんが〈お役所の決済は、若い娘っこの返事のように煮え切らない〉というんです。
☆それ以上正確なことは知りません。あるいは長い時間がたってからのことです。ここ(来世)にはこんな慣用句があります。ひょっとしたらもう知っているかもしれませんが〈公の決定は新しい権力のように恐怖だ〉というんです。
『女盗賊』、作品を見る限り、この黒ずくめの者は、男か女か分からない。女盗賊という題名からすると、正体は女ということになる。それにしても上半身が極端に大きく下肢が小さいのは何故か、足が本当にあるのかさえ不明である。ただ、手だけは人間の体である。
両手でしっかり箱の上部(蓋?)を抑え込んでいる。決して開けることは適わないものであるかのように。
決して、断じて開かない…不可逆、これは死をもって他にない。この箱の中には死体が眠っているとは考えられないだろうか。右隅に置かれた二つの箱は、この世(現世)に残した未練、心残りだと思う。
死…(この現象は滅することではなく、霊界の使いが、現世へやってきて盗んでいくのではないか)と、マグリットは考えたのではないか。
霊界の盗賊は闇黒の時空に、生命果てた死体の盗人として現れる。黒ずくめの下の正体は繊細で女らしい配慮と優しさに満ち、そして覆面の下の素顔は泣いているのかもしれない。
霊界の使いである、女盗賊は時空を軽々と浮遊・飛翔するゆえ足など不必要であり、愛しい死体を運ぶための腕と胸が巨きくさえあればいいのではないか。
腰から股間にかけてのVの字型のものは、Vacancyは空虚/何もないことを示しているのかもしれない。
何もない、目に見える現象は何もないけれど、死人(しびと)を大きな胸で抱いて逝く優しい女盗賊がきっといるに違いない!
マグリットの葬送の想いだと思う。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
ジョバンニは、(さうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)とおもひながら、
「どこかで待ってゐようk。」と云ひました。するとカンパネルラは
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎ひにきたんだ。」
☆推しはかる果(結末)は、字で運(めぐらせている)。
記は普く合(一つにあわせる。いっしょにする)になっている。