そういう結果になりかねないのです。そうなったら、わたしたちは、あなたを失ってしまいます。なにしろ、あなたという人は、隠さずに申しますが、いまではわたしたちにとって、バルナバスがこれまでお城でつとめてきた仕事よりも大事な人だと思ってもよいくらいなんですもの。にもかかわらずーわたしが毎晩頭を痛めているのは、この点の矛盾なのですー
☆わたしたちはあなたを失ってしまいます。わ葦はそれを告白します。場rなバス(生死の転換点)がいままで死に尽力してきたことよりも(荒地)はさらに重要です。けれど、たとえ、完璧な終末(死)だとしてもーわたしを苦しめているのはこの異論なのです。
ラジオ体操を決意した日は、雨戸を開けたら雨。
翌日、恐る恐る出かけてみたら・・・あらっ、誰もいない。だって開始時刻の三分前に到着したのに。
「すみません、ここでラジオ体操があるって聞いてきたんですけれど」と出勤してきた女の人に尋ねると、
「はい、間もなく始まります」という。
「で、何人ほど集まりますか?」と聞くと、
「職員と・・・そう4.5人でしょうか」という。
話しているうちにチラホラ・・・二人、三人・・・。
公園事務所の職員の方が圧倒的に多い。
広場の道路側の端に《ラジオ体操やっています》の旗を立て、ラジオが用意され、予定通りに始まった。
ちょっと動いただけでもいい気分。
カードにスタンプを押してもらったら、先客の旦那さん、「わたしより少ないですね」と笑った。
その方が10くらい、その前の方が20くらいのスタンプ数・・・してみると、この運動は始まったばかりのようである。
今朝は雨降りだったけど、今は雨音がしない。もしかしたら、実施かな?
『無謀な睡眠者』
木目の付いた箱状の中で横に臥せって眠る男、その下には何と決めかねる形状のプレートにはめ込まれた6つの具象物がある、そして、その背後は暗澹たる虚空という画面。
無謀、考え無し、無分別・・・何に対して考えないのだろう。
現世に生きるものであるにもかかわらず、棺のような箱(木目は樹木/生者の死後)に眠るということ自体、霊界へ入ることを想起させる。
地上に眠る人でなく、虚空に浮遊しており、放棄したものが中空に落下している。
物が語る、あるいは表明する内実。
鏡は、わたくしの状況(今)を映すもの。
鳥は、自由。
帽子は、社会的地位。
リボンは、女性。
ろうそくは、情熱。
リンゴは、知性。
生きていく必要十分な条件である。
要するに、わたくし(眠る男)は、今のすべてと決別し、霊界の中に秘密裏に入っていくことを夜毎望んでいる、失うこと恐れない無謀な睡眠者であります。
(誰にも打ち明けられない、母への恋慕かもしれない)
(写真は『マグリット』西村書店刊)
そしたら俄かにそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケットのぼたんもかけずにひどくびっくりしたやうな顔をしてがたがたふるへてはだしで立ってゐました。
☆我(わたくし)は告げる。
罰を無くし、断(たち切る)詞(ことば)の釈(意味を明らかにする)のは、信仰の律である。
その点では、みなさんの態度は、正しいと言えましょうね。それをお話しするのは、なかなかむずかしいのです。あなたにたいしてでもそうですのよ。あなたは、いったん聞いてしまうと、わたしたちのもとを去り、たとえ直接あなたに関係のないことのようにおもえても、もうそんな話ははたくさんだと耳をふさいでおしまいになるでしょう。
☆それは正しいでしょう。でもそれには危険が生じます。あなたに対してもそうであり、可能なことではありません。あなたは耳を傾けてしまうと、わたしたちから去り、これ以上知ることを望まないでしょう。あなたもまた、この点に関してはそのように思われます。
毎日が日曜日状態の高齢者、今日が日曜日であったことに奇妙な感慨を覚えてしまう。
そうか、今日は日曜日だったのか。
だからと言って、どこへ行く当ても何をするのでもない日常の凡庸。
日曜日も何もなく忙しく働いていた日々、夜の十時になって「さぁやるぞ!」とはじめた内職は、夜中の三時になっても朝になっても終わらない。
そうして、いつもの生活の渦に巻き込まれていく。
もっときめ細かい子育てができていたなら、もっと優しい介護ができていたなら…後悔は山のようにある。
実感することは《時は人を待たない》ということである。
精神のあり様が大雑把すぎて、何もかもが乱雑なまま今日に至っている。そのせいか、時々・・・誰に言うでもなく「ごめんね」とつぶやいている。
後ろ向きな日曜日のため息・・・。
《無限の認識》
地平線が画面の下方に在り、雲の多い空中を二人の紳士が散歩(?)、浮遊している。
二人は、酷似していることから一人の人間の分解に見える、換言すれば自問自答である。
無限・・・地球は有限である。無限を考察するならば、地球外に答えを求めなければならない。
終わりのない道、線であり面である二次元、あるいは三次元の終結は地球内においては考えられるが、宙の計測基準はどうなのだろう。
何かに突き当たる(例えば太陽など)ものとの距離は測れるが、終結点のない対象への計測はあり得ない。あり得ない距離、有り得ない空間を《無限》と呼ぶのであれば、認識を可能にすることは困難である。
《人はどこへ行くのだろう、どこまで行くのだろう》
この故知らぬ不安が無限の根拠かもしれず、絶対という根拠を根底から否定される。
人は存在し、考える。しかし、人は宇宙の塵となり霧消していく極小の点に過ぎない。
無限の中の個、個の中の無限・・・尽きることのない思考の果て、無限の認識は答えを結ばない。
(写真は『マグリット』(株)東京美術より)
いま秋だから野茨の匂のする筈はにとジョバンニは思ひました。
☆終(死)也。
詞(ことば)の化(形、性質を変えて別のものになる)により、仁王(仏法の守護神)の喝(大声を出す)試みる。
「ただそれとはなしにほのめかしはしますがね。はっきりしたことは、なにも聞いていませんよ」
「橋屋のお内儀さんも、なにも話しませんでいたか」
「いや、なにも聞いていませんね」
「そのほかのだれからもお聞きになりませんでしたか」
「ええ、だれからもね」
「当然のことですわ。どうわたしたちのことを話すことができましょう。だれだって、わたしたちのことを知っています。ほんとうのことにせよ(もっとも、みなさんがほんとうのことを知ることができる範囲内においてですが)、あるいは、すくなくとも人から聞いたか、たいていは自分でつくりあげた根も葉もないは葦にせよ、とにっく、なにがしかのことは知っています。そして、必要以上にわたしたちのことを考えています。しかし、だれも、それをあからさまに話すことだけはしないでしょう。こういうことを口に出すのは、はばかれるのです。
☆「いいえ、なにも聞いていません「それ以外にもですか」「なにも聞いていません」
「当然のことです。どうしてわたしたちのことを話すことができるでしょう。たいていの人たちがわたしたちのことを知っています。本当のことにせよ、そもそも、少なくとも人原訊いたか、多くのうわさを聞いたか、そして必要以上にわたしたちのことを考えています。けれど、それを正しく物語る人は誰もいないでしょう。口にすることを恐れているからです。
『格闘家たちの墓』
室内に巨大なバラの花が出現している。
真紅の薔薇は燃え上がる情熱、激情をイメージさせる。
盛り・頂点・真骨頂・最高潮・・・薔薇の開花。あとは萎んで散る運命、自然の理。
ピークは誰にでもある、逆らえない劣化。
しかし、胸に残る誇らしい功績、勝利、称賛の時。
それらは、その時には気づかないことが多い。まだやれる、まだまだの心意気は時間の経過とともに幻と化していく。
あからさまに闘志むき出しで挑む闘争、闘いは永続することなく格闘家たちは何時か負けることで栄光の場を去って行かざるを得ない。
人生は闘いである。秘密裏に燃やした闘魂でさえも何時か空しく霧消してしまう。
室内(心理/精神)に出現した巨大な幻想の薔薇、栄光の真紅の薔薇は振り返って初めて気づく墓標のようなものかもしれない。
(写真は『マグリット』東京美術出版より)