バルナバスは、あの部屋への出入りを認められているというせっかくの恩恵を、あんなところで何もしないで何日間もぶらぶらとすごすために浪費してしまっている。あるいは、こちらへ帰ってくると、さっきまでそのまえでびくびく身ぶるいをしていた連中のことを疑ったり、けなしたりし、また、絶望したためか、手紙もすぐには配達しないで使者の任務をなおざりにしている。これでも畏敬の念を持っているといえるでしょうか。こんなものは畏敬でもなんでもない。
☆バルナバス(生死の転換点)はあの空間に出入りすることを許されている。あそこ(来世)では何日間も何もしないでいる。こちらへ帰ってくると疑わしさで戦慄し小さくなっている。疑ったり疲れたりで手紙(書き物/告知)はすぐに運ばず、小舟のことを打ち明けてもすぐに実行できないでいる。これは畏敬の念などでは少しもありません。
何ともいえず美しい鳴き声である。
鳴き声ばかりが耳に残るけれど、その姿をまだ見たことがない。ウグイス色をしたメジロが花の蜜を吸うのを見て、(あれがウグイスか)と勘違いをしたこともある。
小鳥は夜が明けさえすれば、そのさえずりを惜しげなく披露し、聞く人の心を和ませる。
ひたすら耳を澄まして聞いている。
考えてみると若いころは鳥の鳴き声などに無関心でだったかもしれない。
あのえも知れぬ美しい鳴き声に、酔い心地になれる今の時に感謝している。こういう暇な時間に見舞われる人生の時期というものが来るのだという感慨に浸っている。
すでに桜咲く春である。
老いていくことに戸惑いを感じるよりも、今日の新しさに目を見張る好奇心をもって暮らしたい。
『軽業師の休息』
アクロバット…想定外の動き、予想外の超人的機能を披露する人の休息とは何だろう。
重力圏内に生きることを常としている人にとって、あたかも重力を感じさせないような動きは、大いに驚嘆させられるものである。
軽々と飛び越えたり、身体を物のように屈折させたりする動作は、不思議であり奇妙な興奮状態を喚起する。軽業師の心身の疲弊を思うと切ないほどである。
その身体のすべての装飾を取り払った裸体をバラバラに切断し石壁に埋め込んでいる。物質(無機質)との同化は、室内(人為)の空間にあるが、影は人工の明かりによるものか、あるいは外気によるものかは判別不能である。ただ背後には空か海かの自然の暗示があり、自然に背いているとも言える状態である。
物のように疲弊し散在したかの身体は、石壁に同化し固まっている。しかし、休息というからには再び抜け出してくることを意味しているのだろうか。
女の顔、胸部、下部、性的器官を曝している・・・肩は男のようでもある。他は形を成さず、失われた部分(足、足首)は質的変換を図ったような流動体に溶け込んでいるのだろうか。
ピエロのような哀愁はなく、即物的にそこに在るというだけである。
意表を衝く軽業師の演技は、重力に逆らい、身体機能の極限に迫る動きを要する。
動かざる石に同化することこそ、最高の安らぎ(休息)ではないかと、石壁にはめ込んだ軽業師の切断された身体。しかし、どこまでも観客を喜ばせる肉体を張った表現がある。
軽業師の執念、恥辱を捨てた身体表現は石壁に同化しても尚その精神を貫いている。
隠さない、極限まで曝しとおすことの凄まじさを冷たい石壁に同化させ、休息と名付けたマグリットの冷徹な眼差しに感服するものである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
ほんたうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊かうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしようかと考へて振り返って見ましたら、そこいhもうあの鳥捕りが居ませんでした。
☆溢れる他意は化(形、性質を変えて別のものになる)を腎(大切なところ)として推しはかる。
罰(罪や悪事などに対する懲らしめ)の講(はなし)である。
申(述べること)が変(移り変わる)を兼ね、懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)補(たすけること)を挙(くわだてている)。
「しかし、それは、間違った畏敬の念なのです。そういう畏敬は、かえって相手の名誉を傷つけるものです。
☆しかし、それは、間違った方向へ導く畏敬の念なのです。場違いな畏敬の念なのです。そういう畏敬の念は彼女の尊厳を冒すものです。
遺跡に立つとみんな下を向いて何かを探している。
「これは?」聴講生。
「スエ(須恵)ですね」とか「ハジキ(土師器)です」と、先生。
わたしも懸命に下を向いて探したけど、ただの土しか見えない。
「これは?」
「これはチュウセイ(中世?)ですね」と言って、先生は下に投げてしまったので、わたしは急いで拾って、それを差し出した人からもらい受けた。
だって、中世だよ、わたしの知らない千年も前の器の欠片だもの。(わたしにとっては貴重)
鎌倉時代だろうか、それとも・・・。
数百年を経た土器の欠片、先生には関心外でも、わたしには十分夢見る対象。
数百年の時を夢想する、手に取ってじっと眺めている。
縄文・弥生時代の欠片が、遺跡にはたくさん眠っている。
遺跡探訪…ど素人のわたし、頓珍漢な質問はしないように心掛けた昨日の探訪。案外面白いかもしれない。
古代の遺跡、幻である。
在ったらしい。住居跡、出土の焼き物の破片、わずかな手がかりで、推論を立て、実証を探索していく。
土は掘り返され、痕跡は跡形もない。
「巨岩石が飛んできて、その場を塞ぎ長い時間を経たような奇跡的な場所からは明らかな物証が出ます。
群馬の山奥ではそんな例があったと聞きますが、この辺りではそんな遭遇はありません」と、学芸員。
「それでも三浦半島は、交易のため、北へ行くにも西へ行くにも、通らねばならない要所でしたから、海岸付近の居住地跡からは各時代の片鱗たる物証が出土します。」
京急津久井浜駅から、町谷原遺跡跡(古代)町谷原遺跡跡(縄文・弥生~古墳・古代)、大町谷西遺跡跡(古墳・古代)、大町谷南遺跡(古代)、宝蔵院遺跡(古代)、大町谷北遺跡跡(古代)、町谷原下遺跡(古代)、大町谷東遺跡跡(弥生~古墳・古代~近世)、横手遺跡(弥生~古墳・古代)、川尻遺跡(弥生〔中〕・古墳・古代)などを散策。
博物館のイベントも回を重ねると、顔見知りから友人へと親しみが沸き、再会の喜びに浸ることが多い。三年前に駅で別れたきりのAさん、
「久しぶり!」と言ったら「大病してね、近頃やっと外へ出られるようになったの」と、驚愕の報告。
被災した東北へボランティアで何度も出かけたり、マラソンに参加したりの元気旺盛な人のその後に絶句。
(でも、お会いできて嬉しかったわ。またね!)
花粉症がひどくて鼻水垂らしながらの散策、それでも何とか一回り。
稲村先生、瀬川先生、ありがとうございました。
『一夜の博物館』どういうことなのだろう。博物館というものは古来からの歴史を知るためにあらゆるものを収集し保管・陳列する場所である。
一夜・・・人類の歴史などはそれほどに短く浅いものだと言っているのだろうか。真偽は分からないが、つかの間お見せする人類の史実ということかもしれない。
夜あるけば、つまづく。そ人のうちに光がないからである。(『ヨハネによる福音書』より)
光のない時間、闇の中に展かれた博物館、幻想である。
腐った果実・精神の深淵(霊)・左手首・具体性を持たない不明な置物などが各四つのエリアに収められている。
あなたの目が開け、神のように善悪を知るものになるといわれた中央にある木の実。(『創世記』より)
もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい(『マタイによる福音書』より)
精神の闇(秘密)、傷痕。
イメージを拒否する不明なもの。
善悪・罪科・傷痕・不明な闇・・・精神の歴史、時代順に整理できない人類の存在証明が密やかにもここに在る。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。
☆懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)を補(助ける)記は、法(仏の教え)の路(物事の筋道)であると吐く。
法(仏の教え)に接(つながる)譜(物事を系統的に書き記したもの)である。
往(人が死ぬこと)を黙って表し、逸(かくしている)。
逸(隠した)講(はなし)を兼ね、致(まねく)帖(書き物)を保(持ち続ける)のは、字による自記の図りごとである。
考えは、二つの文に交わっている。
展(物事を繰り広げる)千(たくさん)の講(話)を留めている。
飛躍した念(思い)を留め、重ねた記は黙している。
「わたしたちがバルナバスの引き受けた任務の重大さをいいかげんに考えているとは、おもわないでくださいな。わたしたちは、お役所にたいする畏敬の念を十分にもっています。これは、さっきあなた自身がおっしゃったとおりですわ」
☆わたしたちが引き継ぐ使命(問題)の重要さを軽く見ないでください。裁判に対する畏敬の念をなくすことはありません。それは、あなた自身が言ったとおりです。