息子たちのこと、そのファミリーのこと、いつも心配している。
食事はきちんと摂っているだろうか、睡眠は十分だろうか・・・事故のないよう無事な日々を過ごしてほしい。母の心配は尽きないが、彼らはわたしの心配など無頓着に違いない。
もちろん、それでいいのだけれど、《いい人生を、納得できる人生を》と願っている。
自分をなくして家族のために生きる・・・ずうっと、そうしてきたような気がする、そんなに殊勝ではなかったかもしれないけれど。
それでも今、
記憶力もほとんど機能しない昨今、(何をどうする)というほどの考えもなく劣化の一途のわたし。それでも、自分のために生きてみたいと思う。
こんなことを思うのは、意欲が著しく減退しているからだろうか。なんとか自分を奮い立たせようと自分を騙しているのかもしれない。
年老いて、足元もおぼつかないお婆さん、《まだやる気》の妄想を抱いています。
街ですれ違う人には(このお婆さん、いつ死ぬのかな)なんて目で見られているかもしれない。
それまで、それまで・・・。
『空気の平原』
奇妙な題名である。空気は見えるべき形態を持たない、したがって、平原という固定化はない。
肥大化した一葉が岩だらけの荒れ地にすっくと立っている。岩の荒れ地から生えている、ほかの生物は見当たらない。
空の上方は怪しい雲行きだけど、どこか清涼感がないともいえず、覗く青空と下方は白雲が平らに広がっている。
岩地に肥大化した奇妙な一葉が生えているほかは、むしろ普通の山頂の景色である。
これを『空気の平原』と称している。
一葉は樹木(生命体)から落下せざるを得なかった《死》である。生命を失ったものが肥大化(巨大化)するということは、死に新しいエネルギーが注入されたということである。
死からの蘇り・・・すなわち、霊/霊魂であって、ここは現世ではなく架空の黄泉の世界である。
岩・荒地に雄々しくも蘇った、名もなき一葉の静謐な反乱。
《わたくしは死してここに在る》という黙した主張。
空気は波立たず静かな広がりを見せている。しかし、平原と言うからには、すでに空気さえも質的変換を迫られた幻想の世界である。背景の曇天は、一葉の精神を映したものかもしれない。
「景色の雲のような、その通りの不穏を抱いております」というメッセージ。決して平穏ではない死者の精神を偉大とも思える大きな空間が護っている。
死者(一葉)の業は巨きく膨れ上がっている、しかし、この領域(黄泉の国)の空気は、それを崇高さをもって鎮める偉大なる大平原である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「あの人どこへ行ったろう。」カンパネルラもぼんやりさう云ってゐました。
「どこへ行ったらう。一体どこでまたあふのだらう。僕はどうしても少しあの人に物を言はなかったらう。」
「あゝ、ぼくもさう思ってゐるよ。」
☆図りごとの講(はなし)を運(めぐらせている)。
考(かんがえ)を逸(隠している)態(ありさま)は朴(ありのまま)の章(文章)で図っている。
仏が現れる僕(わたくし)の試みである。
「あなたがわたしになさった非難は」と、オルガは言った。
「もうとっくのまえからわたしがわれとわが身にくわえていたことですのよ。
☆「あなたがなさった(作品の)題材は」と、オルガ(機関/仲介)は言った。
「もうとっくのまえからわたしがわれとわが身に課していたことです!
なにかしら手を動かしている。
作るものがないときは古タオルを半分に切って雑巾を縫っている。古裂を眺めては夢想する、技術が伴わないのでろくなものはできず、噴飯物の手作りが出来上がる。
ちょっと恥ずかしいようなものだけど、作っている時間が楽しい。
というわけで、今日も簡単バックの一丁上がりデス。
『青春の泉』
朱い空は何を意味しているのだろう。日没だろうか、それとも夜明けだろうか、どちらにしても活気に満ちたというよりは確定不能の不穏な空気である。
鷲をかたどった石碑(ROSEAU)の背後には、例の鈴(言葉・主張・伝説 etc)と肥大した一葉が描かれている。
一葉、一枚の葉は樹木(生命)から落とされたものであり、それは死を意味する。それが肥大化しているというのは、精霊の具現化ではないか。死した者(世界)の蘇りである。
「考える葦である」といった《葦》の文字が刻まれた鷲を模した石碑、鷲は不死や神の象徴である。不死や神という想念は、あくまで人間の考えによるものであり、人間の時代が終末を迎えれば、おのずと消滅を余儀なくされるものである。
青春・・・かって存在したであろう人類の源の墓標である。
人間は自然の中で最も弱い、しかし、鷲の強さをもって世界を制し、言葉(鈴)と精霊とを従えた若き時代があったのだとする遠い未来の新しい人たちの憶測である。
果てしないほど隔絶された遠い未来、その未来が、人類の若き日(現代)を『青春の泉』と称した墓碑ではないか。(時は果てしなく永続し、わたしたちの時代は石碑の中に括られる日が来るのかもしれない)
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る支度をしてゐるのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすゝきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖った帽子も見えませんでした。
☆双(二つ)の我意、即(すなわち)、兼ねた章(文章)の路(すじみち)を補(たすける)詞(ことば)を図ることである。
死を究(つきつめる)幻(まぼろし)の我意を査(明らかにする)詞(ことば)を吐く。
破(やり抜く)懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)を補(たすける)講(はなし)は、千(たくさん)の謀(はかりごと)の詞(ことば)が現れる。
しかし、ぼくは、まだまだ文句がある。オルガ、あんたにも言いたいことがある、あんただからといって、言わずにすませるわけにはかない。あんたは、当局にたいして畏敬の気持ちをもっているつもりでいるくせに、バルナバスをあの若さと気弱さにもかかわらずひとりぼっちにして城へやった。すくなくとも、それを引きとめようとはしなかった。
☆しかし、なお多くの非難があり、オルガ、君もそれを免れるわけにはいかない。それにもかかわらず、バルナバス(生死の転換点)は裁判に信念を持っていることに畏敬の念を抱いている。彼の若さと弱さと孤独は死に役立ったろうか、すくなくとも引き留めることはできなかった。
『呪い』
青空に散在する雲・・・それっきりの画面である。
行方知らぬ雲の変幻に、呪いは隠されているというのだろうか。
地に伏せるのは悲嘆や懺悔であり、空を仰ぐのは願望である。願望には確かに(呪い)の感情が含まれることがあるかもしれない。呪詛という怨念は善に外れる悪の領域に在る。
雲は蒸気であり、気体になったり、液体(あるいは個体/雪)になって地へ降り注いだり、常に不安定な状態にある。
常に揺れる心のうちに酷似してるかもしれない。
雲=呪いではないが、変幻自在の流動にイメージを重ねる傾向はないとはいえない。
大いなる自然である雲を見上げる視線は、何物にも遮られない直線として結ばれる。
黙して語らぬ雲という現象は、出現と消滅を繰り返しながら人の手の届かないところに在り、この隔たりは『呪い』の感情に近い。
他者への憤懣・口惜しさ・恨みの内的膨張は、あの雲に似ている。呪いは形なき激高であり、マグリットは抑制する胸の内をあの雲に預けたのかもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。
網棚はモウ・ホウと読んで、亡・法。
上はショウと読んで、照。
白いはハクと読んで、吐く。
荷物はカ・ブツと読んで、果・仏。
見えなかったはゲンと読んで、現。
☆亡(死)の法(仏の教え)は照(あまねく光が当たる=平等)だと吐く。
果(予想した通り)仏が現れる。