『チョコレート粉砕器』
チョコーレート粉砕器のカタログの挿絵(本物)を比較してみるまでもなく、おかしなもの(不自然)である。不自然に見えないように苦慮しバランスを取っているが、どう見てもおかしい。
この器械はどう動くのか、チョコレートはどこに置かれどこに出るのか。動力になる機能が欠けているし、粉砕されるべきチョコレートの流出経路も不明である。第一、平面上では零れ落ちてしまう。
しかもローラーの角度が内向きでなく外向きになっている。
機能不能、不備というよりまるで目的に適わない構造を提示している。
いかにもそれらしく在る、しかし内実不明…有用であるように見えて空虚、無用の長物を描き出している。実に巧みである、これは明らかに単純化などではない。
もしデュシャンが存命ならば肩を叩いて忍び笑いをしたかもしれない。
デュシャンて(いいなぁ)そして寂しいよ。でも、存在をもって《虚空》を差し出すなんて凄い!!
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
そして、いつもアマーリアの眼のとどかないところで、つくり笑いと大きく見ひらいた眼でアマーリアのほうをさしながら、いろいろ骨を折ったおかげでアマーリアを救ってやれる日もすぐ眼のまえにちかづいている、
☆そして常にアマーリアの影で動き、復讐を否定するのでした。理解を望み、大きく目を開き、アマーリアを見て、完全に尽力すれば、近いうちにアマーリアを救済できるだろう。
『9つの雄の鋳型』
作品を確かめると確かに9つである。ところが9つである必然性が欠如している、ただ単に任意の数であれば敢えて9つという必要はない。
雄、と明言しているが、根拠が不明である。雄と言ったから雄に違いないという論法である。
鋳型というのは、型の内部に、なにかしらの液体を注ぎ入れ凝固させるものという認識である(鋳物の鋳造)。だから、外観の形態は問題外であり、それらの差異を外観をもって提示するなどというのは、意味不明である。
《9つ、雄、鋳型》という3つの単語は結びつかず、首を傾げるばかりの徒労であり、空中分解せざるを得ない言葉と作品との関係である。
まことしやかに描かれた9つの形、ガラス板、鉛線、鉛箔の使用。無機質/硬質なものの変態(液体~個体)そして破損(ひび割れ)・・・意味の消失。平面化された鋳型に何を見いだせるだろうか。
デュシャンは、言葉の特質である伝達手段の機能を失わせている。
そして、表現されたものは、現実の物にあたかも即した類似性を感じさせるが、以って非なる物へと質を変容させている。
《無への挑戦》である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
中ではふつふつとわらつてまた叫んでゐます。
「いらつしやい、いらつしやい。そんなに泣いては折角のクリームが流れるぢやありませんか。へい、たゞいま。ぢきもつてまゐります。さあ、早くいらつしやい。」
「早くいらつしやい。親方がもうナフキンをかけて、ナイフをもつて、舌なめずりして、お客さま方を待つてゐられます。」
☆宙(宇宙)の教(神仏のおしえ)を究める。
説(はなし)は較(比べて)留める。
総て真(まこと)の法(神仏の教え)である。
舌(言葉)の法(神仏の教え)の他意がある。
父は、こういう、あきらかに無意味とわかる約束をみやげに帰宅してくるのでした。それは、まるできょうもまた祝福をたんまりもって帰ってやるんだと言わんばかりの様子でした。
☆父は先祖にかかる明らかに無意味な確信を背負っていました。それは、再び一族の苦しみが多く見えるにもかかわらず、満ち足りた幸福を持ってくるかに見えました。
紙芝居講座を受講しているけれど、苦慮している。
筋書きと画の下書きが完成したので、いざ彩色を・・・。鉛筆で描いている段階ではバランスが取れていたのに、色を置いていくとそのバランスが見事(?)に崩れてしまう。
モチーフがあってモチーフに依存して描くのではないということを思い知らされている。
数日後に迫った講習日までに、何とか全体の配色のイメージをまとめていきたい。
ため息をつきながら、作画の初歩を思いあぐねている。
本当に難しい…けれど、すごく楽しくもある!
新しい友人たち、先生の一言。
「紙芝居をしようとする人たちはみんないい人です」
ほんと、そんな感じ。メンバーにお会いできるのもすごく楽しみ。
『近接する金属の中に水車のある独身者の器具』
近接する金属なんてものは、ごく普通にありすぎると同時に必然性があり、説明不要である。むしろ、そう表記することで意味を霧消している。つまり意味不明であり言葉を抽象に化している。
しかもその金属の中に水車があるという。
川(水/液体)の中で水車は回るほかはなく、水車の必然性は笑止である。
独身者の器具なんてものは聞いたことがない。独身者は老人に至るまで男女合わせて数多存在するが、そのための器具?日常生活に欠如しているものを補う何か…配偶者がいないと満たされない欲望などもない。(元来、人間は独り身である)
全くの言葉の羅列である。意味を探ろうとすれば、するりと抜け落ちる。そのように駆使して並べられた言葉の空漠。言葉の一つ一つには意味は存在する、しかし任意に選択された言葉を接合すると意味は霧消する。いわば実験的試作であって現実生活(社会)には通用しないことを敢えて提示している。
もちろん作品本体との競合も不条理に満ちている。作品の部分を点検するならば即その不合理性に気がつくはずである。実際にこの形態を作ることは不可能であって、半円形ガラス板という平板(二次元)の中の図形であればこそ成立する不可思議なものなのである。
デュシャンの夢想・・・どうしたら、この世の中の秩序ある存在というものを破壊できるだろうか。あるいは非存在というものを存在する物(見えるもの)として鑑賞者の眼差しの中に差し出すことが可能になるだろうか。
《見ることは見えないものをも見ることである》その証明として、構築しつつ虚構の幻影という秘密を創意している。
こうしてお金をたくさん払ったかrといって、先方ではその見返りに特別なことをしてくれるわけにもいかなかったものですから、ときにはある書記などは、すくなくとも見かけだけはなにかしてやってるようなふりをしようとしたり、調査を約束したり、ある種の証拠はすでにつかめた、それをさらに追跡するのは自分の義務ではないが、きみのためになんとか努力してやろう、というようなことをほのめかしたりしました。父は、それを聞いて疑心を深めるどころか、ますます信じこんでしまいました。
☆数を数えたからといって、何も変わりはありません。先祖の書く人が幾度か少なくとも外見上はそうした試みをしたり、調査を約束したり、自分の義務ではないが、すでに発見したなどといかにも確信したかのように示しました。
父(宿命)は迫害が生じるのを疑わずに常に深く信頼するようになりました。
『急速な裸体に囲まれた王と王女』
この不明なタイトルは熟慮の結果かもしれない。単語の並列が決して意味をもたらさず、空中分解のように無に帰していくように配列するのは困難である。
急速な裸体という表現はないし、裸体が急速である必然性もない。王と王女が裸体に囲まれるという光景も理解しがたい。
非所有者と所有者の関係、非所有者が所有者に反乱を起こすという景だとしても、闘争における武装もない裸体はあり得ないし、王と王女の着衣も不明であり、裸体と王と王女の判別も定かでない。
タイトルは作品を紹介していないし、作品はタイトルに従っていない。
不明なパーツを接合したような作画の中の対象(モチーフ)は、立っているのか浮いているのかさえ分からず、まして(急速な)という形容をイメージできる要素はどこいもない。
作品を理解しようと試み、どこかにその関連を意味づけようと凝視する。
ほどなく、その行為が《徒労に帰す》ことが判明するが、放棄と執着は曖昧に心理を刺激する。
つまり《無意味》を悟る。無意味を熟考・熟慮し、綿密に描いた空論の徒労を、鑑賞者は賞賛すべきかもしれない。かつて存在したことのない驚くべき《空無》に出会えたのだから。
(写真はDUCHAMP『TASCHEN』より)