母は病む十薬の花咲きさかり
十薬は薬効が多いと聞く。十薬は地下茎深く(40㎝くらい)どこまでも広がるので花のころは、まさに咲きさかり、白い点在が一面に続く光景を目にすることがある。
こんなにたくさん、こんなに薬効のある十薬が咲いているのに、病む母を救済する術が見つからない。
(お母さん、どうしたらいいの・・・どうしたら、あなた治すことができるの)
純白の花と緑葉の清廉、十薬の群落を見る目に映る愛する母の病床。切ない娘の心情である。
母は病む十薬の花咲きさかり
十薬は薬効が多いと聞く。十薬は地下茎深く(40㎝くらい)どこまでも広がるので花のころは、まさに咲きさかり、白い点在が一面に続く光景を目にすることがある。
こんなにたくさん、こんなに薬効のある十薬が咲いているのに、病む母を救済する術が見つからない。
(お母さん、どうしたらいいの・・・どうしたら、あなた治すことができるの)
純白の花と緑葉の清廉、十薬の群落を見る目に映る愛する母の病床。切ない娘の心情である。
『チョコレート粉砕機』(No.2)
モデルがある、しかしモデルの形を借用しただけで本来の目的は決して達成不可能な設え、構想である。
モデルには動力があり、ローラーは若干中央に傾き、豆を磨り潰す作用に拍車をかける仕組みである。ところが作品には動力が消失しており、ローラーの傾きも外に向いているという滑稽中央の心棒も役目を果たさない仕組みである。要するにチョコレートの粉砕ではなく、機能の粉砕である。
無用の長物の案、一見『チョコレート粉砕機』に似ているが、もって非なるものを提案している。描写であれば崩れる心配はないが、実際にはこの形で留まることはなく、組み立てることさえままならない物であるに違いない。
これを制作した意図は何か。
機能の喪失、存在しているが、その目的を破棄し決して存在理由に届かない代物・・・悲劇である。争うこともなく沈黙しているが、明らかに嘲笑せざるを得ない存在としての『チョコレート粉砕機』(No.2)。
見かけは《それらしい》が、《それ》にはなれない。一般に偽物といわれる範疇の模索を仕掛けている。
有るが、無いも同然。『存在とは何か、価値(有意義)とは何か』』を秘密裏に吐露している。
写真は『DUCHAMP』 www.taschen.comより
ぼくたちは汽車が動いて行くよりもはるかに速く歌い、声だけではたりなくて腕を振り回した、その声は騒々しく縺れ合い、ぼくたちはいい気持ちだった。自分の声が大勢の声に混ると、ひとは釣針にかかったように捉えられてしまうのだった。
こうしてぼくたちは、森を背に、遠くの旅行者たちの耳に歌を送った。村では大人たちがまだ起きていて、母親たちは夜のためにベッドをととのえていた。
☆他の声も混ざり、先祖を圧迫する難点を捉えようと壁を背に、遠くの旅行者の耳に歌を送った。来世では大人たちがまだ起きていて母親たちは死のための床をととのえていた。
はるばると蓬のさがる故人の手
はるばる(遙遙)はヨウ・ヨウと読んで、洋、洋。
蓬のさがる(蓬下)はホウ・カと読んで、朋、果。
故人の手はコ・ジン・シュと読んで、個、尽、殊。
☆洋洋(希望に満ち溢れた)朋(友達)、果(予想した通り)個(一つ一つ)尽(すべて)殊(特別)である。
はるばる(遙遙)はヨウ・ヨウと読んで、要、用。
蓬のさがる(蓬下)はホウ・カと読んで、俸、家。
故人の手はコ・ジン・シュと読んで、孤、尽、守。
☆要用(ぜひとも必要な)俸(給料)で家を孤(一人)で尽(ことごとく)守っている。
はるばる(遙遙)はヨウ・ヨウと読んで、鷹、遥。
蓬のさがる(蓬下)はホウ・カと読んで、峰、渦。
故人の手はコ・ジン・シュと読んで、弧、尽、聚。
☆鷹が遙(遠くはるかな)峰で渦をまく。
弧をかき、尽(ことごとく)聚(あつまっている)。
※アカハラダカの「タカ柱」(秋晴れ)
はるばる(遙遙)はヨウ・ヨウと読んで、腰、瘍。
蓬のさがる(蓬下)はホウ・カと読んで、呆、禍。
故人の手はコ・ニン・シュと読んで、固、忍、腫。
☆腰の瘍(できもの)は、呆(あきれた)禍(わざわい)である。
固(あくまでも)忍(我慢している)腫(はれもの)である。
※遥かなる法(手本)、過去を忍ぶことは須(必要)である。
個体を数えると確かに9つある。ただ、この鋳型たちはなぜ何かの形を模したような出来上がりを呈しているのか。鋳型は開いた中の形が問題であり、むしろそのことだけが問題(主題)であるはずなのに不要であるはずの外観が立派に設えられている。あたかも何かを想起させる誘因である。
不要、外回りは中を包むのに無くてはならない物であり、無くては中の形を包み込むことはできない。必要であるが、外観の工作は不必要である。
『9つの雄の鋳型』は焦点をずらし、鑑賞者の眼目を分散、破壊している。視ようとする者の目を他に仕向けて主題を大きく外している。
この巧みな《すり替え》は、タイトルと作品を合わせることでは空中分解、空に帰す目的を果たしている。
意味の分解、無意味に帰することである。
デュシャンの仕掛けた罠は、言葉と二次元表現(作品)により空間に縦横な亀裂を差し入れている。《有=無》、恐るべき実験である。
写真は『DUCHAMP』 www.taschen.comより
遠くの茂みの蔭から汽車が現れた、どの車室にも灯が点り、ガラス窓はきっちりと下ろされていた。ぼくたちのひとりが流行歌を歌いはじめた、みんなが歌いたくなっていたところだった。
☆遠くの林の蔭から鎖で束縛された集団の移動があらわれた。すべての企ては精査され、ガラスの食(死の入口)は確かに低く下げられていた。わたしたちのひとりが殴られはじめた、全員が唱で賛美していた。
足だるく川筋の葱喰いいそぐ
川筋はセン・キンと読んで、専、近。
葱喰いいそぐ(葱喰急)はソウ・ク・キュウと読んで、捜、苦、杞憂。
☆足がだるいと、専(もっぱら)近(近所)で捜(探し求める)苦(にがにがしい)杞憂(取り越し苦労)がある。
足だるく(足怠)はソク・タイと読んで、束、帯。
川筋はセン・キンと読んで、鮮、錦。
葱喰いいそぐ(葱喰急)はソウ・ク・キュウと読んで、層、躯、窮。
☆束帯(朝廷の公事に着用した正式の衣服)は鮮(色あざやか)である。錦の層(幾重にも重なる)は躯(からだ)に窮(窮屈、身動きできない)。
足だるく(足怠)はソク・タイと読んで、即、他意。
川筋はセン・キンと読んで、千、襟。
葱喰いいそぐ(葱喰急)ソウ・ク・キュウと読んで、想、句、究。
☆即ち他意である。
千(沢山)の襟(心の中)の想いの句を究めている。
足だるく(足怠)はソク・タイと読んで、足、腿。
川筋はセン・キンと読んで、繊、筋。
葱喰いいそぐ(葱喰急)はソウ・ク・キュウと読んで、総、躯、及。
☆足の腿が繊(ほそい)。
筋(筋肉)の総ては躯(体)に及(影響する)。
『9つの雄の鋳型』
「9は全てであり、0であり、無である」という。要するに不思議な数字を置いたのだと思うが、鋳型のなかを雄と限定するのも見えないので限りなく疑惑が残る。しかも作品は鋳型の外観であるのも関わらず、それなりの何かを想像できるような設えである。鋳型であれば、中の構造が重要であり、外観は問題外である。
論点が見えない、見えないように巧みに構成された作品『9つの雄の鋳型』は外観、つまり有っても無くてもどうでもいい物のそれらしい意味を問うことで意味を隠蔽している。
一つ一つ、既知のものに結び付け考える、まるでゲームのように。閉じられた中身に主眼があるように見せて、閉じられた中身は当然見えず、外観が手だてである。
これはこうだから…と当てはめていくが決定的な答えは当然でない。
《あたかも》…人の考えは固定されている、意識するとしないに関わらず、過去のデータや常識という一般論に束縛されている。
雄であることは普通にまかり通っているが、では厳密にという調査が入れば鑑定は心理的領域を含めて極めて困難である。
つまり見えない、内包されている広域への挑戦、果てしないほどの未知をこの鋳型に閉じ込めたのである。
写真は『DUCHAMP』 www.taschen.comより
ヴィルトバハ橋のところでぼくたちは立ち止った、もっと先まで駆けて行った子供が戻って来た。下では波が、もうすっかり夜になったとは思えないほど、石や木の根を打っていた。そうしていけない理由はなかったのに、なぜ誰も橋の欄干に飛び上らなかったのだろう。
☆急流な橋のところでわたしたちは立ち止った。もっと先まで走っていたが、後方へ回転した。流れは星や激怒を打ち、下に流れて行った。確かに終末(死)に遅れたのではないが、何故、誰も破損(失敗)を訴えなかったのだろう。
体刑の青葦の泥かゞやけとよ
体刑はタイ・ケイと読んで、体、刑。
青葦はショウ・イと読んで、傷、痍。
泥かゞやけとよ(泥輝)はデイ・キと読んで、泥、忌。
☆体刑(むち打ち、焼印など直接体に与える罰の傷痍/傷)の泥む(悩み苦しむ)のは忌まわしい。
体刑はタイ・ケイと読んで、体、形。
青葦はショウ・イと読んで、省、萎。
泥かゞやけとよ(泥輝)はデイ・キと読んで、泥、姫。
☆体の形を省(注意して見ると)萎(衰えている)。
泥(こだわる)姫(女性の美称)である。
体刑はタイ・ケイと読んで、替、計。
青葦はショウ・イと読んで、省、違。
泥かゞやけとよ(泥輝)はデイ・キと読んで、泥、記。
☆替(入れ代わる)計(はかりごと)がある。
省(注意して見ると)違(異なる)泥(こだわり)の記がある。
体刑はタイ・ケイと読んで、他意、啓。
青葦はショウ・イと読んで、章、意。
泥かゞやけとよ(泥輝)はデイ・キと読んで、泥、奇。
☆他意を啓(ひらく)章の意(かんがえ)に泥(こだわるのは)奇(めずらしい/風変り)である。