阪神淡路大震災物故者追悼
江嵜企画代表・Ken
阪神淡路大震災から早いもので17年経った。阪神青木駅から徒歩
5~6分の所にある浄土真宗、本願寺派、西林寺で震災物故者追悼の
法要が行われ例年通りお参りした。正信偈和賛(しょうしんげわさん)
の読経のあと、同寺住職の藤川正敏さんのお話しを聞いた。
17年前の1月17日は気温3.4℃だったと記録にある。そのときは
気持ちが動転していたので良く覚えていない。揺れた時間は同じく
記録によれば、22秒間だったそうだ。しかし、頭をわしづかみにして
振り回されたように揺さぶれたこともあり、なん10分も揺れていた
ように記憶している。
藤川住職は、17年前の被災者が話した言葉を書きとめておられる。
この日は、それを一人づつ、ひとことひとこと紹介しながら話が
始まった。奥さんと生後7ケ月の長女をなくされた方の話では、地震
直後火災が発生し10時間燃え続けた。
焼け跡で骨を探した。跡かたもなかった。当時3歳の長男は田舎に疎開
させた。自分のためではない。長男の母親代りをしてくれる人が
欲しかったと話したとメモを読み上げた。共通の声は、助けていただいた
命だから大切にして生きていこうという言葉だった。
藤川住職は、黒板に「人、世間愛慾の中にありて、独り生まれ、独り
死し、独り去りて、独り来る」と書いた。お経の言葉だとあとで聞いた。
かわじりゆうこうの「柩(ひつぎ)」という詩がある。「死んだら
どこへ行くの?火葬場?お墓?わからない。」という詩だそうだ。
還暦という言葉がある。60年ごとに生まれ変わる意味です。還浄
という言葉がある。これは浄土に還るという意味です。
次に、藤川住職は、「往相回向」という言葉を黒板に書いた。「いって
らっしゃい」という意味だそうだ。「還相回向」という言葉を書いた。
ここで映画「おくりびと」に出て来たせりふを紹介した。火葬場は
「死の門」である。柩に電源を入れた時、遺体は「門」を出るのである。
その時「いってらっしゃい。また会おうぜ」と語る場面があったと
紹介された。
藤川住職の長男、藤川智之さんも西林寺ご住職である。氏はダイバーの
資格もお持ちであると今朝初めて聞いた。数年前、南太平洋、第二次世界
大戦時、日米海戦の激戦地だったトラック諸島を観光で出かけた。そこで
見た光景が忘れられないと話された。
米軍に撃墜されて海底に沈んだ戦闘機搭乗席に頭蓋骨がそのままの形で残り、
白く光っていた。海底には弾薬はじめ日本兵の装備諸々が沈んでいた。沈め
られた軍艦が少なくとも60隻あると聞いたと披露してくれた。これだけ
聞いても日本の戦後は終わっていないのである。
藤川智之さんは東日本大震災の三週間後の4月3日に、夜行バスで
ひとり被災地仙台を訪れた。遺体安置所で読経をされた。損傷が
激しい遺体との対面は厳しかった。4月6日に、南相馬市を訪問した。
いまだ、遺体との対面さえ出来ない人が数千おられる。海に潜り
ご遺体を探したい。しかし、現時点許されていないと話された。
日本政府は、昨年暮れ、政治的思惑のみから東日本大震災は終息
したと宣言した。東日本大震災は放射能汚染という点で神戸とは
基本的に違う。ご遺体ひとつとっても何一つ終って居ないのである。
阪神淡路大震災17年目を迎えた震災経験者の一人として、
東日本被災地の方々を思うと胸が痛む。(了)