楠公(なんこう)物語
江嵜企画代表・Ken
第115回「酒蔵文化道場」が9月21日(土)午後4時から湊川神社宮司、垣田宗彦さんを語り手に迎え、楠公(なんこう)さんのお話を神戸酒心館で1時間半たっぷり聞くことができ幸いだった。会場の様子をいつもの様にスケッチした。
筆者は、まだ幼稚園にも上がらぬ幼児のころ、80年近い前の古い話だが、神戸市電に乗って湊川神社の前を通りすぎるとき、母親から「まんまんちゃん、あん」と、言いなさい、お辞儀をしなさいと、教えられ、意味も分からず繰り返していたときのことを今でもよく憶えている。神戸に「多聞通」がある。「多聞」は楠木正成(1294~1336)の幼名。河内国赤坂村生まれ、幼年、河内観心寺で学問を学んだ。
垣田宮司さんは、冒頭「講演などで楠公(なんこう)さんと言って分かるひとは半分もおられない。」と話を始めた。最近、少しづつ楠木正成を見直す動きが出てきたことを喜んでおりますが、楠木正成(くすのきまさしげ)公とは、誰のこと?と言う人は多い。」と話したあと「本日、お集りの皆様は違う。熱心な皆様のお顔を見て、安心しました。」とユーモアたっぷりに垣田宮司は話を進めた。
講演を頼まれた時、神戸酒心館の安福会長さんに「どんな資料をご用意したらいいか」と尋ねた。「分かりやすい資料でお願いします」ということだった。本日、お手元にお配りした資料は、初めの2枚ほどはアニメです。ところが全体で、8ページの詳しい内容になって申し訳ありません。別途お読みいただければありがたい」と垣田宮司は話された。優れものの資料だった。垣田宮司は17代目で40年目に入る。16代までは外部から来られたと自己紹介された。
湊川神社は明治5年に別格官幣社第1号として神戸の今の地に創建された。延元元年(1336)、足利尊氏率いる数万の大軍を700の楠木軍は迎え撃ち敗れた。湊川の合戦である。湊川神社の一隅に、楠木正成、弟の正季が刺し違えた場所に殉節碑がある。湊川の合戦の前、正成(大楠公)、正行(小楠公)の「櫻井の別れ」は、戦前の教科書にも載った。「自分は死ぬが、その後は父に代わって天皇を助け、最後まで守り尽くせ」と故郷の河内に正行を送り返した話である。♪青葉茂れる櫻井の♪と小学唱歌で歌われた。JR片町線、四条畷駅周辺には正行(まさつら)ゆかりの史跡が多い。
「東海道本線は東京と神戸の間で開通した。神戸駅は湊川神社前につくられた。神社の前を西国街道が東西に走る。湊川神社の西に新開地が生まれた。湊川神社を中心に神戸の街づくりが進められた」と垣田宮司は力を込めた。余談ながら、いま神戸の中心は東に向けて急激に移りつつある。淀川長治が母親のお腹の中で映画を見ていたという「ええとこ、ええとこ、衆楽館(しゅうらくかん)」の世界は今や昔の物語である。
垣田宮司は「秀吉も家康も楠公さんの遺訓を世に伝えた。水戸光圀が現在の湊川神社境内一隅に建てた「嗚呼忠臣楠子之墓」につながる。」と話した。「光圀が楠公さんの墓碑を作ってからは特に、講談本などを通じて楠公さんは大ブームになった。江戸時代、赤穂浪士、忠臣蔵が人気沸騰「楠の今大石になりにけり、名をも朽ちせぬ忠孝をなす。」という落首まで生れた。当時、楠公さんと聞けば知らぬ人はなかったのです。」と垣田宮司は再び力を込めた。
楠公さんとはどんな人物だったのか。楠公さんを詳しく伝える「太平記」には「智仁勇の三徳を兼て,死を善道に守り,功を天朝に播す事は古今より今に至るまで、この正成ほどの者はなかりつる」と書いた。「智」は「千早城、赤坂城の戦いに見られる。坂を上る敵に大岩を落としたりした。「仁」は「千早赤坂戦死者を敵味方共に葬った。」ことに現れる。「勇」は「孤立無援の状態で戦に挑んだ。正成、正季差し違いのさい「七度生きて朝敵を滅ぼさん」と言い残した。これは肉体は滅びても魂は永遠であると、後世の志士に受け継がれる魂を残した」と垣田宮司は総括された。湊川神社は米軍の焼夷弾で焼失したが、昭和27年に再建された。
日本は連合軍との戦争に負けた。特にGHQは楠木正成を排除した。小学校の教科書から楠公さんの文字が消えた。私利私欲のみがまかりとおる日本に変わった。講演会での垣田宮司さんの話を反芻しながら帰路についた。貴重な機会をご用意いただいた神戸酒心館の安福会長にひたすら感謝である。(了)