北方領土問題:笠谷和比古氏
江嵜企画代表・Ken
「北方領土」問題について、笠谷和比古氏(国際日本文化研究センター教授)の話を、3月12日午後2時半から「楽問塾」セミナールームで、約2時間、興味深く聞くことが出来た。
「北方領土」とは、国後、択捉、歯舞、色丹の4島のことだと、いつの間にか日本人は思うようになった。実はそうではない。歴史考察をすれば、全千島列島が日本の領土であることがはっきりしていると笠谷氏は話をはじめた。
嘉永6(1853)年12月に、長崎で、ロシアと日本は、日本開港と国境確定交渉を開始した。その時の日本側全権は大目付格の筒井政憲と勘定奉行の川路聖謨だった。
川路聖謨は、出石の家老職で、出石騒動に連座したかどで奈良に左遷されていた。急遽、ロシアとの交渉に抜擢された。日露交渉開始直後、安政元年(1854),クリミア戦争が勃発、交渉は中断した。
そのため、川路聖謨は、その年の3月から始まった日米和親条約で活躍することになる。その年の12月、日露和親条約が締結され、千島列島の択捉とウルップの間に国境線が確定、樺太(サハリン)は従来の慣例通り両国民雑居と明記された。
川路聖謨は、「巧妙な弁論でもって知性を閃かせた。しかし、彼を尊敬しないわけにはいかなった」と「日本渡航記」(ゴンチァ-ロフ)に残されていると笠谷氏は紹介した。
明治8年(1875)、樺太・千島交換条約が締結、樺太はロシア領、ウルップ以北の北千島全島が日本の領土となった。ここまではロシアは友好的な隣人だった。力づくで取ったのでない。合意の上で取った。力づくで取った領土は、必ず力づくで取り返されると笠谷氏は力説した。
明治38年(1905)日露戦争後のポーツマス条約で、樺太の北緯50度以南をロシアは日本に割譲した。昭和14年(1939)、第二次世界大戦勃発、昭和16年(1941)、4月、日ソ中立条約(領土保全・不可侵、5ケ年期限)が締結された。
昭和20年、クリミア半島ヤルタ会談でルーズベルト、チャーチル、スターリンで、対ドイツ戦後、ソ連は対日参戦、ソ連に南樺太および千島を割譲することが密約された。
昭和26年(1951)、9月、サンフランシスコ講和条約が開かれ、千島列島放棄を日本政府は認め、ソ連による支配が確定した。昭和31年(1956)10月、日ソ共同宣言で戦争状態の終結、歯舞・色丹二島の日本への返還が決まった。以上が日露交渉の経緯である。
日本政府とロシア使節プチャ―チンによって友好裡に締結された日露和親条約による国境確定の歴史に遡り、ポーツマス条約、ヤルタ秘密協定を検討し、領土問題を原点から考察する必要がある。
戦後日本は経済大国の名のもとに金でなんでも解決しようとし過ぎた。巨額の財政赤字をかかえた今こそ、歴史の原点に帰り、筋論から外交交渉を進めることが重要だと,笠谷氏は、強調され、約2時間の講演を終えた。
東北地方に大地震発生直後にも関わらず、大勢、講演に詰めかけていた。会場の様子をいつものようにスケッチした。(了)