思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

上手に自我を隠すと、自我主義から抜けられない。

2006-09-05 | 恋知(哲学)

自己の存在を肯定することは、人がよく生きるためにどうしても必要です。しかし、多くの場合日本では、自己肯定があたかも「マイナス価値」だと感じるように育てられることが多いために、健全な自己肯定の感情が発達しません。

のびのびと・堂々と・あっけらかんと、自己を肯定できれば、自我の芽は成長をはじめますが、それができないと、いろいろと迂回路をつくって、間接的な手法で自我を満足させようと工夫!?します。

それが、深い地点での意地悪(表層親切)を生み、まじめに正面から議論せず、問題をはぐらかし(歪んだ優越意識)、裏でいろいろと画策する人生をうみます。小さな自我を満足させるために、もっともらしい理屈をつけて他者を攻撃する心では、人生と社会を現実的によくいしていく本物の批判=建設的な思考はできません。

私たちの多くが、少しも幸せになれないのは、狭い自我主義を克服するダイナミズムが持てず、家族主義(その延長が国家主義)に逃げ込むからです。周囲の人々や世間に迎合する「成長を止めた自我」を必死で守る、という生き方に悦び=幸せが来ないのは当然です。

自我は堂々と肯定されたときにだけ、その階段を上ります。自我を隠す手法=誤魔化しは、狭い自我を固定して、現実的想像力とでも呼ぶべき能力を育てません。あるのは、ただ即物的な現実主義とその裏返しのつまらぬ空想のみ。自我の欲望は、肯定されれば階段を上り、真実・よきもの・美しきものを目がけるといのが、ソクラテスの思想―恋知(哲学)です。

しっかりと他者に向き合って対話してみる練習、情報知の開示ではなく、その時・その場において自分の言葉で話してみる。格好悪くていい。自分が感じ、自分が思い、自分が考えるという基本に忠実に生きること、自分=主観を掘り進めることが、唯一、自分という芽=自芽=自我を成長させます。わたしたちは、まだこれからのようです。お互いに自我を開き、のびのびと考え・行為し、人生と社会を面白く・暖かくしていけたら素敵ですね。

武田康弘



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ナチス閣僚と類似する岸元首相の存在が、安倍氏の危険な思想を生む背景ードイツ誌が批判

2006-09-04 | 社会思想

私は、8月29日、30日のブログ(この下)で安倍晋三の戦前への郷愁をもつ「国家主義」を批判しました。それには、祖父のA級戦犯容疑者を肯定したいという底意がある、と書きましたが、今朝の「東京新聞」によると、今日発売のドイツの「シュピーゲル」誌も同じ見方で、安倍晋三の思想を批判しているようですので、以下に少しご紹介します。

☆「小泉首相とは異なり、安倍氏は、身を滅ぼした将軍たちに戦犯の烙印(らくいん)を押したり、中国や韓国への侵略を断罪することを拒んでいる」。
「ホロコースト(ナチスの犯罪・ユダヤ人大量虐殺)について『専門家』による研究が必要とするイランのアハマディネジャド大統領と似ている」と指摘。
ナチス軍需大臣だったシュペアーと類似する岸信介・元首相を祖父にもつことが、安倍氏の考えの背景にある、とのこと☆

彼の日ごろの言動や、「美しい国へ」(文春新書)を読むと、間違いなく、戦後もっともウヨク的思想をもつ総理大臣が誕生することになります。実存レベルに降ろして思考する訓練をまったく行わずに、受験勉強(技術知)しかないわが国には、本質論抜きの平板な事実学しかありませんが、そのツケが回ってきたようです。自民党も、国民もその思想の内実を検討することなく、安倍支持の大合唱ですが、それがどれほど「危険」なことかに気づいてはいないようです。

どこが、どのように間違っているのか? を私は、これから更にこのブログで明らかにしていこうと思います。あまりに拙劣で一面的な安部晋三の思想を放置するのは、極めて危険です。
首相という最高権力をもって、アメリカとの軍事共同作戦を可能にするために集団的自衛権を明記(9条の改定)し、天皇を元首にしたいという思い(「天皇制こそ国の根幹」)による教育の国家統制(家族主義と国家主義の宣揚を自著「美しき国へ」で宣言)を進める政策を本気で行おうとしているのですから。

シチズンシップ(市民精神)をもつ市民や、子どもたちを国家主義の思想教育から守ろうと思う人父母は、みなで安部晋三への批判を始めようではありませんか。民知ー恋知(クリック)によって。

武田康弘





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9月9日ーソクラテス的対話の実践ー「哲学するふつうの市民」と「山脇教授」 in 白樺教育館

2006-09-02 | 日記

9月9日(土)の4時から、「哲学するふつうの市民」の方と、東京大学教授の山脇直司さんとの間で対話の会を催します。私、武田が進行役ですが、大学・ソクラテスクラスの授業の中で行いますので、形式的な司会ではなく、内容に踏み込み、議論を恋知(哲学)にふさわしいものにしたいと思います。日本における全く新しい試みにご注目下さい。白樺教育館で。

安倍晋三のようなナショナリズム宣揚の低次元の想念しかない政治家が大手を振るうようでは、「つまらない国ーちゃちな国」にしかなれませんので(笑)。

以下は、このブログの中でのお二人のやりとりの一部です。コメント欄をクリックされれば、全部のやりとりを見る事ができます。



[ 哲学する普通の市民 ] [2006/09/01 22:49]
山脇さんへ。
公共哲学に対する私の基本的疑問は、主に山脇さんの「現代を如何に生きるか」と「公共哲学とは何か」を読んで感じたものです。したがって、それらが「背景知」です。また、「生活の地平」は「普通の一般市民としての日々」です。なお、「産業構造審議会基本政策部会」の議事録(以下。経産省HP)にある山脇さんの発言を読みましたが、具体的なケースで何か具体的な政策提言をしているものは、確認できませんでした。9日には、基本的疑問について具体的根拠を示しつつ、きっちり説明するつもりですので、ご返答よろしくお願いします。
http://www.meti.go.jp/committee/materials/g50531bj.html
――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

[ 山脇直司 ] [2006/09/02 01:55]
返信有り難うございました。当日、武田さんが司会をなさるということで、どのように進行するかわかりませんが、貴方の一連の批判から感じた懸念を一つだけ書かせて下さい。公共哲学は公共政策と違って、主にヴィジョンや思考の枠組みを探求する学問です。政策提言専門であれば、武田さんが非難してやまない東大法学部の先生方でもできるはずです。貴方にとって「哲学する」とはいったい何なのか、教えて頂けないでしょうか?
――――――――――――――――――――――――――――――――

[ 哲学する普通の市民 ] [2006/09/02 06:27]
私は、「人間の存在そのものの充実と輝きを生み出す意味のある知」を求めています。そうでなければ、日々の生活実践の原動力とはなりませんから。「なぜ、どうして、何のために? 何に依拠し、何を目がけるのか?」いつもそう問いながら生きるよう努力しています。それが「哲学する」ことだと思っています。思想史を勉強したかどうか、は関係ありません。そうでなければ、
普通の一般市民は「哲学する」ことはできない、ことになるからです。9日の山脇さんとの対話においても、当然この姿勢でお話しするつもりです。「公共哲学」はしっかりしたヴィジョンや思考の枠組みを欠いているのではないか、という問題意識です。なお、産業構造審議会の答申等は、典型的な役人の文章であり、「哲学する」こととは無縁の代物です。
――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

[ 山脇直司 ] [2006/09/02 10:58]
だいたい判りました。公共哲学の思考の枠組みに関しては、『UP』(東大出版会)8月号にもはっきり書きましたが、「政府の公・民(たみ)の公共・私的領域」の相関的三元論、個人一人一人を活かしながら、民の公共を開花させ、政府の公を開いていく(活私開公)」、「ある・べき・できる」の統合、「地域性と現場性に根ざしつつ地球的争点を考えていくグローカリティ」など多々あります。後は当日、討論しましょう。





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『哲学者の誕生』―ソクラテスをめぐる人々(納富信留著・ちくま新書)

2006-09-01 | 書評
[推薦図書]

『哲学者の誕生』―ソクラテスをめぐる人々
ちくま新書・ (2005年8月刊・945円)

一年前に本書が出たときに簡単に紹介しましたが、改めて推薦図書としてご紹介します。

哲学の単なる研究論文―大学で職業としての必要から書かれる論文ではなく、哲学することを自らに課して書かれた書物は、極めてわずかしかありませんが、本書は、その極めてわずかな部類に属する良書です。

この書は、日本におけるソクラテスについてのはじめての本格的な研究書と言えましょう。従来、ソクラテスについては、おもにプラトンの対話篇を通してさまざまに語られてきましたし、また、一部にマニアックな閉じた叙述による研究書はありましたが、その思索の実像に迫る有意味な書物は、わたしの知るところ皆無でした。

生きた言葉に満ち、ソクラテスの思索の本質に迫る本書は、間違いなくソクラテス研究の新たな基準=始発点になることでしょう。事実学の次元ではなく、本質論―意味論としてソクラテス恋知(哲学)の全体像に迫る本書は、一般にひろく読まれる価値を持ちます。
ここで論証されている「『無知の知』は誤読である」とは、ソクラテス思想の真髄を知るための鍵です。

「哲学はいつ始まったのか? 最初の哲学者は、ソクラテス――あるいは、タレスやピュタゴラス――というよりも、彼と対話し、その記憶から今、哲学を始める私たち自身でなければならない。
哲学は、つねに、今、始まる。」(本書末尾―305ページ)

まったく同感、その通りですね。国や時代や立場を超えた普遍的了解性を生み出すための営みと、個人の実存的真実を掘り進める営みとはひとつメダルの表裏で、それを恋知(哲学)すると呼ぶのですから。私は、すべてを「永遠の相の下」に見、「響きあう実存=響存」として生きたいと思っています。「ナショナリズムと天皇制こそ国の根幹」などという想念しか持てない人間(たとえば安倍晋三)では、哀れです。

(ただひとつ、本論には直接関係しませんが、哲学館(現・東洋大学)創設者の井上円了を国粋主義者と規定しているのは間違いです。訂正されることを望みます。)

武田康弘



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