國道へ出たので、あたりを見ると、來た時見覺えた藥屋の看板が目についた。新太郎は急に一杯飮み直したくなつて、八幡の驛前に、まだ店をたゝまずにゐる露店を見廻した。然し酒を賣る店は一軒もない。喫茶店のやうな店構の家に、明い灯が輝いてゐて、窓の中に正札をつけた羊羹や菓子が並べられてあるのを、通る人が立止つて、値段の高いのを見て、驚いたやうな顏をしてゐる。中には馬鹿々々しいと腹立しげに言捨てゝ行くものもある。新太郎はつと入つて荒々しく椅子に腰をかけ、壁に貼つてある品書の中で、最も高價なものを見やり、
「林檎の一番いゝやつを貰はうや。それから羊羹は甘いか。うむ。甘ければ二三本包んでくれ。近處の子供にやるからな。」
――永井荷風「羊羹」