★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

文科省作曲「センター試験ダンス・パート1」

2014-01-18 21:46:03 | 文学
がんばれ受験生

不肖の葉書より



東京の浅草、大阪の千日前、京都の新京極、それに匹敵するのが名古屋の大須である。そこには金竜山浅草寺ならぬ北野山真福寺があつて、俗にこれを梅ぼしの観音といふ。梅ぼしとは、『おゝ酸!』(大須)といふ駄洒落だが、実は先年まで、観音堂の裏手に『大酸』ならぬ『大あま』旭遊廓があつて、大須の繁盛したのは、半ばそのためであつた。旭遊廓は今の中村に移転したのだが、その当座、遊郭を飯の種として居た人たちは、この先どうなることかと蒼くなつたけど、観音様の御利益は、『刀刃段々壊』で、だんだんよくなつたなどゝいふのは罰当たりな駄洒落かも知れない。
 観音様の境内が、食べ物の店で占領されて居ることは、こゝに至つて名古屋の特徴が最も露骨にあらはれて居ると言つてよい。仁王門から本堂に通ずる道は、食べ物店を迂回する。何と痛快な現象ではないか。こゝ十数年前までは、すべての民衆娯楽機関が、境内のいはゞ四面を取り囲んで居たが、今は映画が主になつて、もう、あの説教源氏節の芸子芝居は見られなくなつてしまつた。説教源氏節は誰が何と言つても、名古屋のもので、名古屋情調をたつぷり持つたものだが、今はもう、安来節などに押されて、大須から程遠からぬ旧末広座を活動小屋にした松竹座で、アメリカ本場に劣らぬジヤズが聞けるなど、時の力は恐ろしいものである。

――小酒井不木「名古屋スケッチ」