焉に大聖の誠言を信じて飛燄を鑽燧に望む。阿国大滝嶽に躋り攀ぢ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星来影す。
「谷響を惜しまず、明星来影す」のスピードと切れ味は空海の頭のキレである。普通、苦労をだらだらと書いてしまいがちな我々の風土にあって、こんなに短く苦行を表現してしまうのはおかしい。感じるときには筆をとってしまうと言う空海は、テキストと外界の区別がなく、初期の大江健三郎みたいな「作家は行動する」みたいなところがあったのではなかろうか。
プーチンのウキペディアをみたら、14歳の時にゾルゲの映画見てスパイになろうとおもった、と書いてあった。で、すぐにKGBに就職したいと言いに行って怒られたと。わたしのまわりにも主人公になりたいみたいなやつはいっぱいいたが、わたしはたぶんほとんどなかったな。小さい頃から作品をつくるがわにしか興味がなかったような気がする。体がよわかったせいかもしれない。幼稚園の頃、喘息で入院したときも、症状が治まると「およげたいやきくん」を歌いながら病院を徘徊していたらしいが、これもなんとなく鯛焼きにシンクロしているんではなく、歌い手へのシンクロであった。なんとなく歌詞が死者からの視点があり、私がそこになにか快感を覚えていた可能性もある。
考えてみると、その意味じゃ映画監督になりたかった元首相に似ている。なるほど、それでおれも彼も口先みたいなところがあるわけだ。実際に他国に攻め込むやつとは違う。
果たして、自分がいつも主人公のやつと、死者の視点から人を見下ろしてひどいことをするやつと、どちらが狂っているのか。