
隠曰。夫大鈞陶甄無彼此異。洪鑪鎔鑄離憎愛執。非独厚彼松喬薄此項顔。但善保彼性与不能持耳。
天地の為す創造は鋳造のようなものだが、そこに愛憎の差、出来がいいとか悪いとかの差はない。赤松子や王子喬が仙人になれて、項槖や顔回が早死にしたのも、べつに後者が手を抜かれたんじゃないのだ。自らの性を保った者とそうでない者の差があるだけだ。
なにか現代の健康至上主義者のような言いっぷりである。これにくらべると、なんだかアメーバの様にただよっておりました、なんか生えて参りました、水蛭子だったので捨てました、みたいなどこぞの国生みなんか、生を他人のせいにする気満々である。亀毛先生に目的論の過剰さがあるなら、隠士には身体に向けられた科学主義がある。もう人間を創られた物としてロボットの様に考えている。しかしロボットは丁寧にしか作れないものなのである。
そういえば、道教的なお話の主人公である浦島太郎は煙状の何かを浴びて老人に変化した。いまだって、たばこを吸いすぎると体が崩壊するとか老けるとか言っているのと同じようなものであろう。浦島は、仙人の如く生きる人々とともに竜宮にいるときにはぴんぴんしていたのである。そのかわり、ある一部の(露伴とか。。)イジワルな人々が酒池肉林だったにちがいないとか言っているのを例外として――、案外健康的な生活を送ってたに違いない。太宰治の「浦島さん」は次の様に言う。
「ああ、琴の音が聞える。寝ころんで聞いてもいいんだろうね。」無限に許されているという思想は、実のところ生れてはじめてのものであった。浦島は、風流の身だしなみも何も忘れて、仰向にながながと寝そべり、「ああ、あ、酔って寝ころぶのは、いい気持だ。ついでに何か、食べてみようかな。雉の焼肉みたいな味の藻があるかね。」
「あります。」
「それと、それから、桑の実のような味の藻は?」
「あるでしょう。しかしあなたも、妙に野蛮なものを食べるのですね。」
「本性暴露さ。私は田舎者だよ。」と言葉つきさえ、どこやら変って来て、「これが風流の極致だってさ。」 眼を挙げて見ると、はるか上方に、魚の天蓋がのどかに浮び漂っているのが、青く霞んで見える。とたちまち、その天蓋から一群の魚がむらむらとわかれて、おのおの銀鱗を光らせて満天に雪の降り乱れるように舞い遊ぶ。
竜宮には夜も昼も無い。いつも五月の朝の如く爽やかで、樹蔭のような緑の光線で一ぱいで、浦島は幾日をここで過したか、見当もつかぬ。その間、浦島は、それこそ無限に許されていた。浦島は、乙姫のお部屋にも、はいった。乙姫は何の嫌悪も示さなかった。ただ、幽かに笑っている。
そうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れない。陸上の貧しい生活が恋しくなった。お互い他人の批評を気にして、泣いたり怒ったり、ケチにこそこそ暮している陸上の人たちが、たまらなく可憐で、そうして、何だか美しいもののようにさえ思われて来た。
「浦島は、乙姫のお部屋にも、はいった。乙姫は何の嫌悪も示さなかった。ただ、幽かに笑っている。」こういう言い方が太宰のいやらしさであった。太宰はたぶん戦時下をアイロニカルに情熱的に眺めていた。この情熱が強すぎて、浦島のようにすぐに状況に「飽き」るのである。飽きると人間は対義語に飛びつく。地上が「美しい」とか思ってしまうのである。
もっとも、このいい加減さは、水蛭子だったので捨てました、という我が神様と似ていると思う。