粤蛭牙公子跪而稱曰。唯唯敬承命也。自今以後專心奉習。於是兎角公下席再拜曰。猗歟善哉。昔聞雀変為蛤。猶懷疑怪。今見蛭牙鳩心忽化作鷹。葛公白飯忽為黃蜂。左慈改形倏作羊類。豈如先生之勝辯変狂為聖乎。
世の不良が案外多弁な説教に弱いのはこれを見ても分かる、――わけはないのだが、あまりに素直である。こいつももしかしたら、今はやりの口だけの人ではなかろうか。なにしろ、自分のやったことに対する反省がない。
曰く、雀が蛤になるとか、信じられないと思っていたがそんなことはなかった。いま、私の様な鳩の心が鷹の様になったのである。葛公という仙術使いの挿話のように、白飯が蜂の群れになることもあるし、佐慈という道教の人の挿話のように、警察から羊になって逃げたと言う話も話もある――と。この不良、先生の動物化する儒教話のように、自分が変身したかのように語っている。確かに、変身は起こる。それは変心というものが起こるような奇跡であって、確かにそれは起こる。空海はさしあたり、こんなかんじでありえないことの実在をまずは述べているといってよいのかもしれない。その奇蹟の度合いと言ったら、説教ぐらいで不良が更生しなければならないのだ。その不自然さを感じさせないためにも、――なにしろ、上の様な奇蹟よりも、先生の話によって自分の心が聖なるものに向かう方がすごいということになっているのである。「豈如先生之勝辯変狂為聖乎」。
心が変じるというのは、動物が変態するようも劇的なことだ。変態はいつも我々の心と関係なく人しれず起こっているが、変心はかならずわれわれの心の社会にダイレクトにつながっているからである。
私の魂は隠れたオーケストラだ。私のなかで演奏され鳴り響いているのがどんな楽器なのかは知らない。弦楽器、ハープ、ティンパニー、太鼓。私は自分のことを交響曲としてのみ知っている。
――フェルドナンド・ペソア
心を音楽として感じている詩人のみが、心を作曲し直すことも知っている。