★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

悪口の人

2022-03-27 23:49:16 | 思想


虚亡隠士。先在座側。詳愚淪智和光示狂。逢乱之髪踰登徒妻。藍縷之袍越董威輦。慠然箕踞莞迩微笑。陳脣緩頬睢盱告曰。吁々異哉卿之投薬。前視千金之裘。猶対龍虎今観寸歩之蛇。若瞻鼱鼩。如何。不療己身膏育。輙尓。発露他人之腫脚。如卿療病。不如不治。

道徳を説く亀毛先生のそばにしらないうちに座っている虚亡隠士。「詳愚淪智和光示狂」、つまり、バカのふりをして狂気を装っている。まあしかし、この狂気で何かを隠しているようにみえる演技というのはすごく難しいのではないか。

いや、そうでもないのだ。いまネット世界で論戦を挑む人間のほとんどがこういう感じである。つまり、次のような態度と言葉がともなえば、バカの「ふり」しているようにみえるのである。すなわち、傲然と偉ぶりながら笑顔を振りまきながら目をきらきらさせていきなり「間違っている」と言うのである。――ああ、偉そうに快活に否定から入るあのバカどものことね、と現代人なら誰しも思い当たる節があるであろう。なんちゃって「自由人」である。こういう輩は、酒と女で遊んでいる不良よりもタチが悪い。亀毛先生が、動物化する説教マシーンだとすれば、この道教の人は比較する動物マシーンであり、立派な衣装を見て「竜虎」だとおもってみていたが、いまは「小さな蛇」をみて「子ネズミ」をみるようだ、自分の病気に気付いていないのに、他人の足の傷を治そうとするのはひどいよね、と。――悪口のための悪口からしゃべりだすのである。

しかし、考えてみたら、ここで問題になっている不良へ説教していた亀毛先生も、説教と言うより悪口を言っていたのであった。そういえば、今日は高峰秀子様の98才の誕生日であるが、この人も自分は悪口の天才だと言っていた。そして彼女のエッセイはその毒舌を案外ペダントリーの力で支えている。彼女はおそらく、様々な有名人との対談で、人の毒舌には何が必要か知っていったに違いない。ペダントリーは、論文やエッセイよりもむしろ対談とかで発揮されるものである。福田和也と坪内祐三の「革命的飲酒主義宣言」とかを読めば分かる。「三教指帰」が、鼎談の演劇であるのも納得である。

ただ、悪口の天才たちがたいがい現代のネット民程度のゴミクズで終わるのと一緒で、そこに必要なのは何か業のようなものである。高峰秀子と森雅之の共演でヒットした映画「浮雲」をみると、われわれがついに失ってしまった、上の「縷之袍」に光るクズ男の振る舞いというものを感じさせる。確かにこの映画の森雅之の演技はいやらしいほどすごいが、この映画で屍体を演技させても秀子様にかなうものはいないということが判明したのであってみれば、いっそ森雅之が演じたクズ男も秀子様がやったら最高であった、と思わせるほどである。しかしこれは、頑張って秀子様が生来の我が儘ぶりを発揮してなんとか森雅之のいやらしさに耐えた結果なのである。森雅之には、昔の男が持っていたクズ男の色気があった。

おそらく、道教のこの乞食男は、儒教的正論に抑圧されている男であって、高峰秀子が演じるパンパンに身を落とした女以上に、何か本質を奪われてしまった姿を体現していて、森雅之演じる不倫を重ねて落ちぶれた男もそうであった。いうまでもなく、「浮雲」は、敗戦後の男女没落以上に、倫理の没落そのものを描こうとしているのである。

ゆき子の眼は、生きもののやうに光つてゐる。気にかゝつて、もう一度、富岡は、ゆき子の眼を覗きこんた。ランプをそばによせて、じいつと、ゆき子の眼を見てゐた。哀願してゐる眼だ。富岡は、その死者の眼から、無量な抗議を聞いてゐるやうな気がした。ハンドバッグから櫛を出して、かなり房々した死者の髪を、くしけづつて、束ねてやつた。死者は、いまこそ、生きたものから、何一つ、心づかひを求めてはゐない。されるまゝに、されてゐるだけである。
 腕時計は十二時を指してゐた。


――林芙美子「浮雲」