★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

外を絶て

2022-03-30 23:51:35 | 思想


帝皇至貴猶亦不得。而況凡人乎。以此為虚誕。以此号妖狂。何其迷哉。欒大両帝之徒。此乃。道中之糟糠。好仙之瓦礫。深可悪之甚。夫如是。故伝必擇人。非以尊卑。宜汝等。専心受学。無教後毀耳。能学之人。蓋異此歟。手足所及。豸蝝不傷。身肉之物。精唾不写。身離臰塵。心絶貪慾。目止遠視。耳無久聴。口息麁語。舌断滋味。


口が悪い御仁である。――皇帝さえ仙道を見出せなかったんだから凡人のわれわれなんか無理だよ、と言っているバカがイル。だから、仙人の道は、嘘だとか妖術だとか言われているのだ。何を血迷っているのだバカかっ。言うておくぞ、欒太とか始皇帝とか武帝とか、道中を学ぶ者のカスでありガラクタだ。深く深く憎む必要がある。このように、道教は人を選ぶんだよ。尊卑とかは関係ない。お前らも心を専らにしてひたすら学び、バカにされないようにしなくちゃならぬ。まず、てめえの手足が届く範囲の豸蝝(手足の長い虫)を殺しちゃダメ、体の中にあるもの――精液とか唾液とか垂らすんじゃねえ、つまりきたないものから離れる努力して欲を絶つんだ。遠くを見るな、長く聞くな、下品な言葉をはくな、濃い味を絶て。

始皇帝や武帝がだめなのは、殺したり飾ったり、欲を外に表現していたので、心も欲の塊となった。すなわち、心を清くするためには外部を消去すれば良いという理屈なのである。精液とか唾液が、その外部と内部の通路(つまり欲の表現)を象徴的に示すものである。これを引っ込めれば、外部を絶てるというわけだ。

わたしのように、蝝(いなご)を好んでいるやつは永久にダメなのである。しかし、逆に、始皇帝になれるかも知れない。

それに、この糟糠(カス)野郎と皇帝を罵っても、我々には糟糠の妻などを愛でる習慣さえある。

細君はマリネツトといふ愛称で呼ばれ、十年の糟糠の妻は、彼の眼に常に新鮮であつた。
 彼は彼女を芝居に連れて行つて、さて云ふ――
「マリネツトもまた、彼女の楚々たる装ひに於いて成功した。レースにくるまつて、しとやかな共和の女神のやうだ」と。
 彼はまた、一座の女たちの露骨な話題にうち興じてゐるなかで、自分の細君がどんな風かといふのを、「退屈しきつた純潔さ」と見るのである。


――岸田國士「愛妻家の一例」


ルナアルのことを語った文章なのだが、こういうことを言う人はまだまだかなりいる。しかし、こういうことをやめて自立した個になるとわれわれは自分らしさとか言って、始皇帝みたいな状態になろうとしてしまう。道教先生が言っているのは、おまえの内にそれじたいの価値などないという単純な事実である。しかしそのないという事実に即して生きることが可能だと言っているのである。我々は大人にも子どもにもなる必要はない。労働も自己実現も不要だ。