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遂与頭蝨以陶性。将終晋歯而染心。表若虎皮之文。内同錦袋之糞。視肉之譏具招一涯。戴盆之誚永伝万葉。豈不辱乎亦不哀哉。
蝨だか黄歯だかもその環境としての人間のせいであり心も同じように染まるモノである。表には虎の皮を被っているようにみえても、そのなかは錦の袋にウンコが入っているようなやつがいるのであり、そういうのは、視肉――肉とみれば食らうことしか考えない禽獣だ、という譏りを一生涯うけることになるであろう。大空を視ずにお盆を頭上に掲げている人は昔の人が言う「戴盆」というやつで、こんなはずかしいことありますか。哀れなことありますか。
水に落ちる石のような我々の本性は、蝨黄歯ウンコ視肉獣戴盆のような物体であり、せめて空を見ろ、というわけであった。
空をみろ、星を見ろ、宇宙をみろ、彼方から迫り来る赤い火を
たしか、ウルトラマン太郎の主題歌にこういうのがあったが、ウルトラマンというのは、地球人というウンコ(特に子ども)が空を見上げてせめてまともになろうとする、儒教的番組であったのかもしれない。生きよ墜ちよという作家はもちろん、ネトウヨクソフェミクソリベケツナメ野郎の宮台真司氏に至るまで、教養に裏打ちされた罵詈雑言は一定の教育的・政治的な役割を果たしてきたことはたしかである。
教養をつけなければならないのは、悪口も教養でなんか違うものに化けるからだよ。政治や教育はこれがないとやってられない。むろん、ひどい思い上がりを伴うが、必要悪なのだ。源氏が、
才を本にしてこそ大和魂の世に用いらるる方も強うはべらめ
というのは、別にコミュ力としての大和魂ということではなくて、才がなければ亀才みたいな罵詈雑言で啓蒙・政治ができないからであった。