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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

切磋琢磨はノーサンキュウ

2022-03-13 23:14:43 | 思想


余思楚璞致光必須錯礪。蜀錦摛彩尤資濯江。戴淵変志登将軍位。周處改心得忠孝名。然則玉縁琢磨成照車器。人待切瑳致穿犀才。従教如円則庸夫子可登三公。逆諌似方則帝皇裔反為匹傭。木従縄直已聞昔聴。人容諌聖豈今彼空。

玉は磨かなければそれとならず、錦は洗わなければならず、人もごしごしと磨き洗うことが必要だ。だから、人の言うことをきかにゃだめだというのだ。磨かなきゃ帝王の子孫もつまらない人に成り下がる。木材は墨縄によって真っ直ぐな木材と成り、人も同じだ、と。

そりゃま、そうかもしれない。しかし、そこらの石や木材も、ちゃんと仕立てようとしてももともとだめな素材というものがあるわけである。われわれも随分、中学の頃、「磨かなきゃ才能とは言わぬ」とか言われたが、そもそもわれわれの大多数は自分が、ウンコの入った袋ぐらいに思って居るのである。そんなものを磨いたら大惨事ではないか。墨縄なんか付けられたら黒い筋がついちゃうじゃないか。

というわけで、帝王の子孫の例を出しておだてても大概のバカは更生しない。努力をしたいほど自分を評価していないからである。しかしそれでも自己肯定感とやらが低下して大変なわけではない。自分を評価していないことを高く評価しているからである。

自分を良くわかっているかかる人間に関しては、ウンコの帰趨を知っているかどうかのほうが大事である。

田舎育ちでぼっとん便所(トイレではない)の記憶が生々しい私が思うに、――自分の排出したブツがどうやって片付けられているのか知っている人間と、しらんうちに水が流してくれてると思っている人間とは世界観が違うのだ。後者はすべて主張や正義が清潔感に通じているため、ごしごし洗うか流すことしか思いつかぬ。われわれは自分が関わるものに対しては応答責任があり、ウンコに対してもそうなのである。

たしか七十年代に司馬遼太郎が、空海が大学を飛び出さなかったら、憶良みたいな世をはかなむつまらない役人でおわったかも、みたいなことを書いていた。いいたいことは分かるのであるが、こういうことを書く人間はわしは嫌いである。憶良だって、空海だって、自分のウンコの帰趨を知っていたタイプだと思うのだ。役人だってウンコであり、我々が社会の一員である限りはそれに対する応答責任がある。「山月記」のように甘やかすのは好きではないが、ウンコを馬鹿にするのは許せない。

さっき単に思いついたのだが、現代日本人にはコンビニ難民とファミレス難民、コーヒーチェーン難民、スシロー難民、漫画喫茶難民、などがあり、全体として難民として捉えることが重要だと思われる。――と思ったのだが、逆で、自宅が難民キャンプである可能性もあるのだ。我々は昔からこういう難民的なところがあるのである。空海だって断固決然、大学の外に飛び出したのではなく、難民としてふらふらしていた側面があるのだと思うのである。それを普通、二点の間をふらつくのが我々だとすれば、三教の三角形をつくったのがさすがなのかもしれない。司馬遼太郎も、道教を入れたのはなぜだろうと言っていた。