★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

真理は心理にあらず

2022-03-02 23:08:15 | 思想


遂に乃ち朝市の栄華念念に之を厭ひ、巌薮の煙霞日夕に之を飢ふ。軽肥流水を看ては電幻の歎き怱ちに起り、支離懸鶉を見ては因果の哀しび休せず。目に触れて我を勧む。誰か能く風を係がむ。

現代人の、メンタルがーとか思いガーとかいう、言文一致の文のだらだらとした歎きを聞いていると、空海のように「電幻の歎き怱ちに起り」と言って事態を片付ける必要性を感じる。「軽肥流水を看ては電幻の歎き怱ちに起り」(衣服車馬の立派さ、豪勢な暮らしなどを見、水の流れの如きすぐさま消失する無常なものだと歎きが忽ちに起こり)――に範囲を広げると、マルクスの階級闘争なんか、世の争いに拘りすぎてるんじゃないかとも思われるくらいである。彼のこの世に対する明瞭な歎きは、風のようである。「谷響を惜しまず、明星来影す」のように、風が吹くように、彼は出家せざるを得ない。彼のその出家の運動は、この簡潔な世界の描写と同じ速度で行われる。

確かに、近代文学の叙述文体は、浮雲にはじまりライトノベルに行き着き、――ますます運動を遠ざける心理を細かく綴るようになってしまった。

そもそも、心理を対象物として描くように構成するというのが、体が動かない描写の視点なのである。かつて喘息で身動きがとれなかったわたくしはそれがよく分かる気がする。

たしかヴァレリーと独歩は同い年だが、昭和初期のオシャレな文人はヴァレリーに学んで独歩に学ばない。けしからぬ。彼らは、ますます心理の裏にも言葉のあやを見出すようになってしまった。

『お前は日本人か。』『ハイ日本人でなければ何です。』『夷狄だ畜生だ、日本人ならよくきけ、君、君たらずといえども臣もって臣たらざるべからずというのが先王の教えだ、君、臣を使うに礼をもってし臣、君に事うるに忠をもってす、これが孔子の言葉だ、これこそ日の本の国体に適う教えだ、サアこれでも貴様は孟子が好きか。』
 僕はこう問い詰められてちょっと文句に困ったがすぐと『そんならなぜ先生は孟子を読みます』と揚げ足を取って見た。先生もこれには少し行き詰まったので僕は畳みかけて『つまり孟子の言った事はみな悪いというのではないでしょう、読んで益になることが沢山あるでしょう、僕はその益になるところだけが好きというのです、先生だって同じことでしょう、』と小賢しくも弁じつけた。
 この時孫娘は再び老人の袖を引いて帰宅を促した。老先生は静かに起ちあがりさま『お前そんな生意気なことを言うものでない、益になるところとならぬところが少年の頭でわかると思うか、今夜宅へおいで、いろいろ話して聞かすから』と言い捨てて孫娘と共に山を下りてしまった。


――独歩「初恋」


このあと、この孫娘と「僕」は結婚してしまうのだが、そこには言い訳もなきゃなんで惚れたのかも分からないのだ。しかし、それでよい。初恋みたいなものは、恋の心理ではなくて、行動なのである。「先生」が漢文の先生だったのは非常に示唆的である。