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爰有一多親識。縛我以五常索。断我以乖忠孝。余思、物情不一、飛沈異性。是故聖者駆人教網三種。所謂、釈李孔也。強浅深有隔並、皆聖説。
出家しようとする空海に親族や先生たちは、忠孝の道に反すると言って反対した。空海は思う「物の情一ならず、飛、沈性異なり」と。やっぱりもはや現代のマルチスピーシーズだか、パースペクティズムなんかを反抗期の段階で気付いていた大師さまであった。物の心はひとつではない――ここまではみんな違ってみんないいの類いであるが、鳥は飛ぶし魚は水に潜るじゃないか、ということを直ぐさま言っているのがすごい。われわれの心がことなるのは、鳥や魚の生活が違うことと同じだと。これは擬人法ではなく物の見方というのは本質的にそういうものだというのである。夢応の鯉魚レベルのことを言っているのではない。
そして、すごいのは、その鳥と魚の違いを、「釈李孔」(仏教・道教・儒教)の違いに直結させることである。空海は三教の比較宗教学をやっているのではなく、鳥と魚と人の違いを考察しているのであった。それらはみな「聖者」である。これがしかし、みんなちがってみんないいにならないのは、ちゃんと浅いのと深いのがあるかもと断っているからである。
こんな歌がどこからともなく晴れやかに聞こえて来ましたので、勘太郎は不思議に思って眼を開きますと、自分はいつの間にか見事な寝台の上に寝かされて、傍には大勢の美しい天女が寄ってたかって介抱しています。勘太郎は又夢を見ているなと思って眼を閉じようとしますと、不図自分の枕元にこの間夢で見たお姫様がニッコリ笑って立っているのに気が付きました。
勘太郎は驚いてはね起きますと、どうでしょう。自分はいつの間にか髪から髯まで真白になって、神様のような白い大きな着物を着ています。それと一所に気持ちまでも神々しく清らかになって、今までの苦しかった事も悲しかった事もすっかり忘れてしまいました。
「そら、神様のお眼ざめだ」
と大勢の天女たちは皆一時にひれ伏しました。
勘太郎はそのまま神様の気持ちになってそこに止まりました。もう何も食べる事も心配する事もありません。只毎日天女たちの春の歌を聞き、面白い春の舞を見ているばかりでした。
或る日、勘太郎は大勢の天女たちと一所に住居を飛出しました。門口を出てからふり返って見ると、自分達の住居はこの間山奥の岩の間に立てかけた樫の丸太の中程にある小さな小さな虫の穴でした。
勘太郎は何より先に自分の昔の住家の処に来て見ました。見るとそこには昔の通りに自分の家があって、前にはこれも昔の通りに炭焼竈があります。オヤ、今度は誰が炭を焼いているのだろうと思って見ていますと、間もなく家の中から出て来たものは昔の勘太郎そっくりの男で、着物までも同じ事です。
――夢野久作「虫の生命」
もっとも、鳥も魚も分かった気になってしまう天才もいいが、こういう不気味なものに突き当たりつづける近代の動揺もわるくない気がするのだ。我々はこの動揺によってより魚や鳥を一生懸命に見つめるかも知れない。