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如復飽食滋味徒労百年既同禽獣。燠衣錦繍空過四運亦知犬豚。記云。父母有疾冠者不櫛。行起不翔。琴瑟不御。酒不至変笑不至矧。此乃思親切骨不敢容装。又云。隣有喪春不相。里有殯街不歌。是復与人共憂不別親疎。其於疎遠如此。於眤近如彼。故親族不豫莫迎醫嘗薬之誠。則賢士哲夫側目流汗。閭巷有憂無相愁問慰之情。則傍親有識寒心入地。形殊禽獣何同木石。体如人類何似鸚猩。
批判や悪口というのは、比喩に止まっているうちはおもしろくないものである。しかしやっているうちに暴走して面白くなってくることも確かだ。この先生も、これでもかとメタファーピストルを連射しているうちに、うまい料理を百年食ってもなんのことはねえお前は獣か、とか暖かいきれいな衣装をきて一年を送ってもしょうがないよね、お前は犬か豚かよ、とか――言われた方はもしかすると獣たちがうらやましくなってくる始末である。やりすぎた先生は、(現代でも話につまった大学の先生などがそうだが)必殺引用爆弾である。「礼記」にはかくかくしかじかとあるぞと言い始める。父母が病の時には笑わない楽器を弾かない、酒は飲まない、笑わない、――他人のことを大事におもえばそうなるはずだと。そうじゃないひとみたら、心が寒くなって穴に入りたいと思うはずである。(……たしかに、なんだかこういうのは妙な羞恥心が生じるものである)そして、辻褄をあわせるように、お前は形は異なっているが禽獣だ木石だとくる。具体性に欠けるのはだめなので、最後は鸚鵡や猩々か、お前は、となかなかの説教である。
是に比べると、例えば、
もし豚をかくの如くに詰め込みて電車走らば非難起こるべし 奥村晃作
といった表現は、豚に対してシンパイシイと共に激しく馬鹿にするという複雑感情によってなりたっていて、上の先生よりもかなり巧妙だ。しかし、三教指帰のこの先生のような激しい連射もなかなかである。動物たちが生き生きと動き出すかのようだ。
そういえば、テレビでウクライナ問題に関して浅田彰氏がとりあえず逃げろと言ったとかで、私はそれをみていないんでなんともいえんが、もともと彼の逃走というのは、遊撃というかゲリラというかそういう戦法の言い換えみたいところあるから、文字通り逃げることとちょっと違う。氏の「逃走論」がでたころわたしもテスト勉強の合間に読んだけど、その逃走は闘争のいいかえで、まだ都市ゲリラ戦みたいなものを夢みた連中の尻尾をひきずってるんじゃないかなと思ったものだ。確かに勇ましい連中がしばしばその実逃げる機会を虎視淡々と狙ってるような逃避的なやつらであることを戦中派も学生運動のひとたちもいろいろ見てきたわけだから、浅田氏の言うこともリアリティがあったのだ。実際、いまだって逃避するのは非常に難しい勇気のいる行為であることはかわりない。抵抗する気がないとそれはできないからな。ただ浅田氏の場合それがやや西部劇みたいなロマンティクなかんじがして、「ビルマの竪琴」のほうがまだちゃんと逃走している感じがするくらいだった。
――以上思春期の頃の感想である。そういえば、浅田氏はドゥルーズやケージを引きながら動物への変身を主張していた。浅田氏の主張は、当時からモラリッシュであり、こうなるとほぼ儒学者みたいな本質をほんとうは持っているのかもしれなかった。
我々が、なぜ動物への変身を非現実的なものとして退ける様になったのか。たぶん、我々の敵が動物というより機械になったからである。例えば、ツイッターでは、本棚さらすぜとか、地震で本が散乱したぜ、みたいな画像が流れてくるのだが、それをついみてしまうと、なんかみんな似た様な本を持ってるんで、当たり前なんだがすごく憂鬱になる。アマゾンやらで同じような本を買わされていることが分かるからだ。一周まわってというかなんというか、アマゾンやらのロボット力を、屁とも思わないオタクの主体性がこれからは大切な気がしてきたな。あとは、興味が散漫すぎて結果的にレオナルドみたいな何でも屋をやれてしまう天才か。――人間万歳。
と、こうなるから、動物であることよりも人間であることを意識させられている模様なのだ。とはいえ、潜在的な動物への欲望が、猫犬を飼ったり、その画像を眺めることで爆発したりするのである。
東浩紀氏は、オタクと動物的なものについて昔語ったが、オタクたちの危険性は動物的というより、機械に支配されることで頭の悪い人間になってしまうことにあった。東氏は、浅田氏のような遊撃戦士ではなく、つねに構築物の中から構築物を変えて行く様なプロレタリアートの人だからであった。戦争は、彼らのような対立を無効化し、上の先生の親や他人に従うのか従わないのか、みたいな抽象的なことを強要する。こういう現象はまさしく人間的であり、テクノロジーでは解決出来ない。そしてだからこそ、テクノロジーが戦争を支配しなければならないという強迫によってまあ戦自体は終了することがあるのは、我が国が経験したことだ。