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淼淼辯泉与蒼海以仏涌彬彬筆峰共碧樹以縦栄。玲玲玉振凌孫馬以連瑤。曄曄金響踰楊斑而貫蘂。
淼淼と広がる弁舌の泉は大海のうねりのようで、彬彬としてすごい文章は深い樹海のごとく栄えてゆくであろう。玲玲と鈴をふるわせる様な文章は孫綽や司馬相如を越えて多くの玉を連ねて鳴り渡るであろう。曄曄として黄金の響くような美しい言葉は楊雄や斑固などを越えて多くの華房を繋いだ様に輝くであろう。
淼淼彬彬玲玲曄曄とうるせえ限りである。孫綽や司馬相、楊雄や斑固まで略されて二字になってしまうこの世界は、我々の心理をなぞる様な曲線的な文章と違い、相似的な表現が規則的に爆発的に増殖して行く。そのためには、エピソードは漢字の中に圧縮されてしまう。我々は、ここに心理のなさをよむかもしれないが、この爆発性こそが心理なのである。
山梨で大学生をやっていた頃、富士急行線にやたらどこかで覚えた漢詩を唸っている酔っ払いがいて、周りの客に絡んでいた。面白いのは、このおじさんが上の様な心理の持ち主だったことで、つい最近までそういう人間は生き残っていたということである。戦時中のプロパガンダもそういうものとの関係で考えなきゃいけない面もある。
実質ばかりの世の中は淋しからうが
あまりにプロパガンダプロパガンダ……
だから御覧なさい
あんなに空は白黒くとも
あんなに海は黒くとも
そして――岩、岩、岩
だが中間が空虚です
――中原中也「(何と物酷いのです)」
プロパガンダと空と海と岩は対応しかけてしていない。岩の数は、プロパガンダの数より多い。こうやって、近代人は正気を保つ様になった。つまり余白や中間や空虚を感じることによって、それを正気と思い込もうとしたのである。しかし、そういう空虚も対応物をもとめる。戦争はそういうものの一つである。