然則當用楽器譬之若聖王之為舟車也、即我弗敢非也。民有三患、飢者不得食、寒者不得衣、労者不得息、三者民之巨患也。然即當為之撞巨鍾、撃鳴鼓、彈琴瑟、吹竽笙而揚干戚、民衣食之財将安可得乎。即我以為未必然也。意舍此。今有大國即攻小國、有大家即伐小家、強劫弱、衆暴寡、詐欺愚、貴傲賤、寇乱盜賊並興、不可禁止也。然即當為之撞巨鍾、撃鳴鼓、彈琴瑟、吹竽笙而揚干戚、天下之乱也、将安可得而治與。即我未必然也。是故子墨子曰、姑嘗厚措斂乎萬民、以為大鍾、鳴鼓、琴瑟、竽笙之聲、以求興天下之利、除天下之害而無補也。是故子墨子曰、為楽、非也。
墨子の有名な音楽否定論である。儒教が音楽と礼にこだわっているのと対照的である。墨子は合理的で兼愛で、――結局、案外現代に使えそうなのになかなかよみがえらなかったのはこれまた有名な話である。どうも合理主義と非楽が結びついているのではなく、兼愛みたいなものと結びついていると思うのだ。音楽は民主主義ではなく卓越したものを指し示すし、私が音になりたいという欲望を発動させる。あたしが他になりたいというのは、他を愛するのではない。むしろ他の屈服を意味している。
横川良明氏の『人類にとって「推し」とは何なのか』は、突然、推し活?のために三島由紀夫になれと出てくる。まだちゃんとよんでないが、とにかくでてくる。まあ、もうさんざ言われてるんだろうけれども、仮面の告白の最初の「彼になりたい」みたいなのが推しなのであろうか。ああ、この作者はイケメン俳優が推しの男性か。。。
我々は、推しみたいなものがメディアとの関係だと思っている。が、そうとも限らない。いろいろなものから推されている可能性もある。虫の知らせとかお迎え、というの、誰でも何度か経験あると思うのだが、例えば私なんかは、そのテキストを扱うと嫌なことが起こるみたいなこともある。虫の知らせが体内の三虫が原因と考えられていたように、なにかモノに着いているんじゃねえかなとも思う。虫の知らせは、他のモノからの推しではなかろうか。
そういえば、誰かの訃報を聞いた後、事故に遭いかかったりしたことがあったり、その前に母親から電話があったりした人の話を聞いたことがある。わたくしにも近いことがあった。こうやって人は人生がわけわからなくなってゆく。「白雪姫」のなかで、Some Day My Prince Will Come という曲がある。しかし、いつか特高警察が と いつかオレにも幸福が、の違いとはなんであろうか。やってくるものは様々なのに、我々は人生を自分の過去の因果だと思いたいのである。