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明の鐘ごんと突きや気のきいた烏サアざいもくのうへで楊枝をつかふそれにこけめが朝なをし
わたしが教育を舐めたらいかんなとおもったのは、一斉授業ですごく鋭敏で寝るなんて予想もつかない学生が、1対1の卒業論文指導で寝たからであった。まるで烏が電線で寝るようであった。
特別な人は、学校なんか無視して走ってしまうので関係ないが、――国として研究者の集団を尖兵にしたいのなら、小学校の教員のレベルを上げるしかない。大学院への集中投資なんか手遅れだ。ただし今の調子だと、より役人みたいな研究者(及びその予備軍)が多く居るだけの地獄になる可能性があり、もうホットいてくれとしか言いようがない。
研究なんかも、柳田國男じゃないがいろいろな意味で田舎の母の顔がちらついている人間にだけ可能な感じもする。母というのはいろいろな意味で法の外にいる。父にはもともと期待できない。江藤淳ではないが、もう太平洋戦争で全員死んでいる。母も総力戦のおかげで死にかけたが、少し生き残っていたはずだった。しかし、80年代以降ぐらいから再び動員がかけられほぼ死んだとみてよい。
かくして、学校で「母」が要請されたのだ。はい鉛筆持って下さい、教科書開けてください、いまのよかったね、先生(お母さん)嬉しいです、ワークシートに書き込みましょう、みたいな感じを高校まで続けている教育環境から研究者が出てくると思うか?まあ出てくるか、ものすごく怨嗟の塊みたいなやつが。
テレビのニュースみてると、言わされたことを棒読みしているような子どもが多くてびっくりするが、いちばんびっくりするのは、学校ではもっと言わされている場合がある事態だ。子どもも情けねえわ、そんな教師の言うこと聞くことねえのに。しかし処世がかかっている子どもの気持ちはよく分かる。その結果、子どもたちは擬似父(男性器)エイリアンみたいに暴れるのを最終手段としている。彼らは別に腹がへっているわけではない。彼らがなんであんなに涎流して歯茎ひょこひょこしてるのかよくわかんないんだけど、お腹がすいているのではない。カツカレーでもたんまり喰わせれば寝てくれるかもしれない、というのは無駄な想像だ。
「父」が居るというのは、指揮者が声を出すということだ。オーケストラの大音響のなかでは私語したって大丈夫みたいなことを素人は言ってはならない。目の前の群衆のなかからチェリビダッケオタクが出現しめっちゃ聞こえるしとか嬉しそうに話してくれるからである。チェリビダッケ好きは父権論者にちがいない。チェリビダッケは観客が私語をしていようといまいと、オーケストラのトゥッティに合わせて叫んでしまう。
指揮者達は、その父である属性が失われている世界でこえを出そうと頑張っていた。岩城宏之が山本直純とゲイ用のホテルに入って怒鳴りあいの議論をしていたところ、隣からうるせえと言われたエピソードが好きである。エピソードはいろいろなものを脱色することが多いが、ここでも父権の行方というテーマが脱色されてしまった。岩城氏は、観客によく喋っていた。日本の現代音楽の初演のときに、「つまらなかったら拍手しなくていいですょ」と言ったことは有名である。
そういえば、卒業論文の口頭試問と謝恩会で意識が亜空間に行っているうちに、小澤征爾がなくなっていた。わたしは岩城宏之のほうがすきだったが、ふたりのウィキペディアをよむとどちらもひととしてあれそうだからフルトベングラー教に復帰いたすことにした。誠にありがとうございました。小澤のN響事件の内実は知りようがないが、孤立した天才対旧体制みたいなエンタメにして、この事件を消費して溜飲をさげた連中は、小澤よりもN響団員よりもうちの蛙よりもレベルの低い奴らであることは確かである。小澤にしてもN響の人たちにしても、蛙以下の世間のなかでなんとかやっていくほかはない。わたくしの低い趣味に拠れば、小澤征爾と言えば、むかしのメシアンの交響曲とかタングルうっドのマーカスロバーツとのガーシュインがすごかったと思う。つまり、彼の指揮はソリストがいる場合のほうが白熱していたような気がする。「父」であることをやめた場合である。
そもそも、小澤氏の父は満州国の理想に生きた民族主義者だ。で、小さい東洋人である息子は新たな「父」アメリカに乗り出した。あるアメリカ人から小澤征爾とボストン交響楽団がいかに微妙な空気だったかみたいな話を聞いたときにすごく東洋人蔑視を感じたことがある。大変だったんだろうなと思う。子どもの頃読んだ本に、オザワ、アバド、メータが三大新興勢力だみたいなことが書いてあって、日伊印三国同盟みたいでかっこいいなとか思っていたわしを小太鼓のばちではたきたい。が、――戦後世界で、クラシック音楽におけるナショナリズムがどのように機能していたのかは興味あるところだ。障害のある演奏家が言葉による脚光をあびることがあるように、クラシック音楽も「よきもの」であるためにいろいろな言説戦略をとってきているためである。
閑話休題。西洋音楽そのものはまだ「父」のままである側面もある。松本での小澤征爾の音楽祭は結局一度もいけずじまいだったが、なんかチケットとるのが難しいと言われててなんか都会からのブルジョアのオッカケが専有してるだのという田舎伝説に怯えたせいもある。木曽音楽祭は身近で行われていて、いろいろと音楽家がどういうひとたちか聞くことが多かった。とにかくこんな我が儘な人たちがこの世に存在するのかみたいなことを田舎もんが思うこともあったと聞いている。だから小澤征爾がわがままでーとわがままな人たちが人たちが言っているような事案は全体として一切信用できない。有名人が来ると参勤交代での対応みたいになってしまうのも無論問題があるが、おかしな人たちにびっくりしてしまうことには同情するしかない。
もしかしたら、田舎に来たがらない若者達は、上のような「おかしな人」に扱われるのがいやなのか知れない。――無論、社交辞令である。古典文学の院生が就職がなくてみたいなことがよく話題になる。確かに文学部的なものも減ってきはきてるンだが、地方の高専や教育学部とかを含めればあまりに応募してくる人間がすくない。なにかおかしいなと思わざるを得ぬ。一時期に比べるとむしろ就職は容易になっている面もあるのだ。理由はいろいろあるだろうが、一つは自分の専門が生かせないほど校務が狂ってるというイメージがいよいよ大学にまで当てはめられて広がっているということはあるとおもう。小学校から高校までの先生が減っている理由と同じだということかもしれないわけだ。あと、就職戦線でおちまくるのに精神が持たないのではないかという恐怖が広まっていることは確かで、これは学部生の就職活動への恐怖と同じか。――言うまでも、恐怖は精神的な「父」がないことによる。