★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

因果律と人生

2024-02-17 23:13:13 | 文学


この奥の姿を見るに、京には目なれず、 田舎にもあれ程ふつつかなるは又あるまじ。その殿のうつくしさ、今の大内にも誰かはおよびがたし。 我いまだ何心もあるまじきと、二人の中に寝さされて、たはぶれの折からは心にをかしくて、「我もそんな事は三年前よりよく覚えし物を」と歯切りをしてこらへける。さびしき寝覚めに、かの殿の片足、身にさはる時、もは何の事もわすれて、内儀の軒ききすまし、殿の夜着よりしたに入りて、その人をそそなかして、ひたもの恋のやめがたく、程なくして、「さても油断のならぬは都、我が国かたのあの時分の娘は、いまだ門にて竹馬に乗りあそびし」と、大笑ひをいとまにして、又親里に追ひ出されける。

似たような映像作品がたくさんあるような気がするが、――都のせいにされているところが今と違うところであろう。いまだってそんなかんじでなんでもかんでも都のせいにすれば結構楽な気もするのだ。実際、都のせいなことはおおいわけだし。

我々はいつも因果律を人生に持ち込まざるを得ない。今日は起きてテレビつけたら、池田エライザさんが松田聖子さんの歌をでかいギター抱えて歌ってたからいいことありそうだと思ったが、いろいろやったり寝たりしていたらもう次の日が近づいている。

わたくしぐらいになると、前後の並びにもすべて何か理屈をくっつける。例えば、イーロンマスクが宇宙に行くつもりみたいな番組の直後に「おにぎり」についての番組が続くNHK。前者を後者が否定しているとみてよいだろう。

浅田彰って云うのは、近代日本の生み出した成果だね。ぜひ民族の記念碑にすべく剥製にしてゼロ戦の隣りに飾るべきだな。

――福田和也『罰あたりパラダイス「中公文庫」特別出張版』


アイロニーのために自分の恐ろしい因果律癖をナショナリズムのふりをしてたたき出すいつもの福田氏であるが、これは一種の自殺なのだ。

牧野静氏の本――宮沢賢治と仏教の関係に関する――を遅ればせながら点検いたす。昨年やっておくべき仕事であった。後悔だけが因果律を破壊する。人生はその破壊に宿る。――大学の時に、ビリヤードにつれていってもらって、はじめてやった。で、すごい才能だこれからずっとやってみないかと言われたが、わたくしは同じような体験をたくさんしており、しかしいまの職業にたいしてだけは言われたことがなく、完全に人生間違えている可能性が高い。が、人生こんなかんじなのではないだろうか。

無理やり、人生を自分の意志に結びつけようとすると、次のようになる。――わたくしは幼少期から無理に食事させようとすると無理に食べさせるなみたいな反抗的な態度であったらしいのだが、立って歩きだすのも普通よりもおそかったという。思うに、二足歩行に対しても反抗していたといへよう。こんな感じである。

今日、決裂前のNHKと小澤のメシアンの演奏がFMでやってた。かんがえてみると、小澤征爾って、メシアンとかストラビンスキーとか脱近代的な何かにすごい演奏が多い。ほんとはブラームスとかベートーベンはよくわかんねえなと思っていたのかもしれんと妄想した。わたしが、満州国を理想郷と構想した彼の父親との関係にこだわりすぎていることは確かだ。しかし、彼の遺した演奏は、因果律をなんとなく呼ぶ力だけはあるわけだ。