
見輿曳。其牛掣。其人天且劓。无初有終。
車が曳かれる。牛と鼻を削がれた人が曳いている。このようにはじめはよくないが終わりによいことが?
何もしないほうがよいように思われることも度々であるのだが、それはあるいは因果関係がはっきりしているときではあるまいか。あまりに頭のわるい人間を目の前にしたときなんかはそういう感じがする。いつも出来事は余剰で覆われているからだ。語調、言葉の選択のテンポその他が我々の頭に蒙昧な何かとして襲いかかる。
そういえば、むかしテレビである語学の学者が、濁音がつくと男らしい感じがする、と言っていた。――確かに、ゴジラ、妖星ゴラス、海底軍艦、マジンガーZと濁音を入れただけで、人類はやる気が出てくるのかもしれない。(どうやら、日本海軍の戦艦などにはほとんど濁点がないらしいんだが……アニメの女性の名前になったりするわけである)日本国憲法が嫌いな方がでてくるのは、やはり大日本帝国憲法に濁音的に負けているからではなかろうか。というわけで、日本国大拳法とでも言えばみんな選挙に行くのではないだろうか。
世には、『中央公論特別編集-彼女たちの三島由紀夫 』などと、題名で女性に配慮しつつも実際は三島が彼女たちとお話しした対談集がある。一方、高峰秀子様が男たちとお話ししたところの『高峰秀子と十二人の男たち』という対談集でおかしいのは、50代の渡辺一夫に対しては少女みたいな口調なのに、次の年に一歳年下の三島由紀夫とは二人ともおっさんみたいなマウンティング合戦であることだ。――昨日も言ったから、もういい気もするが、要するに、立役者は誰かということに熱心だったのが戦後であった。戦争で「立役者」は一掃されてしまったからである。そういえば、このまえ授業で王寺賢太氏の書物を、「消え去る立役者」と言い間違えて、じつに現代に於ける立役者の運命を感じたことであった。
三島由紀夫が、黛敏郎夫妻と高峰秀子に囲まれてご満悦の写真はよく知られている。『高峰秀子と十二人の男たち』の表紙は、この写真の三島と高峰さまの部分だけを梨型に切り取ったものである。著名人達に囲まれてご満悦的な三島の表情が、――梨型にきりとると、三島がなぜかにこにこしているのを、高峰様が「憐れね」みたいなかんじで笑っているように見える。
一方で、世の中、そういうニュアンス?みたいな世界とは別に、襲いかかる数字の世界があり、この季節は、税の数字が飛び交う。そういえば、今日は、ネット上で、日本国民全員が偏差値60以上になればいいよねみたいなネタ的与太に対して盛りあがっていた。60以上でも以下でもなんでもいいが、頭のいい人は「贈与はすでに負債だ」(デリダ?)とか現代思想ぶってないで、贈与にかかわる税金をなんとかせい。しかのみならず、怪獣とかがときどき勝手に日本の土地を専有しているのを、軍隊がてっぽう撃ったりしていじめてるのだが、あれは固定資産税とかなんとか税の暗喩であることに今頃気付いた中年おやじはわたくしである。
数字も襲いかかったり、かくれたり忙しいことである。