★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ニュアンスと数字

2024-02-21 23:44:42 | 思想


見輿曳。其牛掣。其人天且劓。无初有終。


車が曳かれる。牛と鼻を削がれた人が曳いている。このようにはじめはよくないが終わりによいことが?

何もしないほうがよいように思われることも度々であるのだが、それはあるいは因果関係がはっきりしているときではあるまいか。あまりに頭のわるい人間を目の前にしたときなんかはそういう感じがする。いつも出来事は余剰で覆われているからだ。語調、言葉の選択のテンポその他が我々の頭に蒙昧な何かとして襲いかかる。

そういえば、むかしテレビである語学の学者が、濁音がつくと男らしい感じがする、と言っていた。――確かに、ゴジラ、妖星ゴラス、海底軍艦、マジンガーZと濁音を入れただけで、人類はやる気が出てくるのかもしれない。(どうやら、日本海軍の戦艦などにはほとんど濁点がないらしいんだが……アニメの女性の名前になったりするわけである)日本国憲法が嫌いな方がでてくるのは、やはり大日本帝国憲法に濁音的に負けているからではなかろうか。というわけで、日本国大拳法とでも言えばみんな選挙に行くのではないだろうか。

世には、『中央公論特別編集-彼女たちの三島由紀夫 』などと、題名で女性に配慮しつつも実際は三島が彼女たちとお話しした対談集がある。一方、高峰秀子様が男たちとお話ししたところの『高峰秀子と十二人の男たち』という対談集でおかしいのは、50代の渡辺一夫に対しては少女みたいな口調なのに、次の年に一歳年下の三島由紀夫とは二人ともおっさんみたいなマウンティング合戦であることだ。――昨日も言ったから、もういい気もするが、要するに、立役者は誰かということに熱心だったのが戦後であった。戦争で「立役者」は一掃されてしまったからである。そういえば、このまえ授業で王寺賢太氏の書物を、「消え去る立役者」と言い間違えて、じつに現代に於ける立役者の運命を感じたことであった。

三島由紀夫が、黛敏郎夫妻と高峰秀子に囲まれてご満悦の写真はよく知られている。『高峰秀子と十二人の男たち』の表紙は、この写真の三島と高峰さまの部分だけを梨型に切り取ったものである。著名人達に囲まれてご満悦的な三島の表情が、――梨型にきりとると、三島がなぜかにこにこしているのを、高峰様が「憐れね」みたいなかんじで笑っているように見える。

一方で、世の中、そういうニュアンス?みたいな世界とは別に、襲いかかる数字の世界があり、この季節は、税の数字が飛び交う。そういえば、今日は、ネット上で、日本国民全員が偏差値60以上になればいいよねみたいなネタ的与太に対して盛りあがっていた。60以上でも以下でもなんでもいいが、頭のいい人は「贈与はすでに負債だ」(デリダ?)とか現代思想ぶってないで、贈与にかかわる税金をなんとかせい。しかのみならず、怪獣とかがときどき勝手に日本の土地を専有しているのを、軍隊がてっぽう撃ったりしていじめてるのだが、あれは固定資産税とかなんとか税の暗喩であることに今頃気付いた中年おやじはわたくしである。

数字も襲いかかったり、かくれたり忙しいことである。

婦子嘻嘻

2024-02-21 02:30:19 | 思想


家人嗃嗃。悔厲吉。婦子嘻嘻、終吝。

家人は不平をならしているぐらいのほうが激しく厳しいのを悔いても結局よし。逆に婦女子が嬉嬉としているようでは面倒なことになる。

これを家父長制の暴力として批判してしまうのは惜しく、だいたい嬉嬉としてみんなが騒いでいることが思ったよりもよくないことを言っているのである。

学校のなかの孤独というイメージからは――たぶん四〇代以降は、どことなく違和感を募らせた結果学校が嫌いになりみたいな物語を想起するだろうが、いまはちょっと違う場合もあるようだ。孤立ではなく、完全に拒否反応みたいなのが。。そして見に行ってみるとこちらも同じ反応が。思想、立ち振る舞い、声色すべてがculいやなんでもない。もう少しで、cultureなのに世の中難しいものである。

戦後の女性達のたたかいはいろんな側面があった。高峰秀子様の『高峰秀子と十二人の男たち』という対談集でおかしいのは、50代の渡辺一夫に対しては「ですわ」とか「うれしい~」みたいな感じで「女学生」なのか「摂待」口調なのかわからんものなのに、次の年に一歳年下の三島由紀夫とやったときは、二人ともおっさんみたいなマウンティング合戦である。三島由紀夫は、マッチョな感じになりながらどことなく女性に無理やり隙をつくるところがあった。高峰秀子が映画業界の男ぶりに感染してるのは無論であろうが、全面的にそうとも限らない。二人は、同世代、少しの女性が年上、芸術家同士(対談でそういう会話がある)みたいなスチュエーションを用いて、大衆社会に於ける同権とは何かを演出しているのであろう。渡辺一夫にはできない芸当である。

スターが大衆を離れるんではなくて、大衆がスターから離れるんだね。

こういう秀子様の発言など、共産党も三島の行く末を暗示しているようである。これは、相手への忖度が大きければでてこない。