不明晦。初登于天。後入于地。
雉は鳴かずして晦る、はじめは天に昇り、後には地に入る。(ビギナーズクラシック「易経」)
人しれず不幸は起こり、天に昇った者もどこへやら。天にのぼったことも誰も覚えていないことも屡々である。
あまりにもくだらないことには、人は欠点によって天に昇ることがある。文章が書き手を救うというのは、場合によってはそういうことだ。柄谷行人氏なんか、一時期すごく「他者」の概念を打ち出していて、しかもどこかしら仙人風でもあったわけだが、様々な人びとによって、彼がすごく普通の他者が分からなそうな人だった、みたいな証言がなされている。気の毒ではあるが、少しは当たっているのであろう。いまだって、いいこと言ったけどそここそがあなたの欠如、みたいな人は多い。それが欠如に見えるのは、どこかで自分を雉だとか思ってしまうからであろう。本当はもっと我々は動物以上に人間である。自分ならびに自分の書いていることの関係をきちんと書ける人はそれほど多くない。このことが、人しれず思想が天に昇ったり地に入ったりする原因となる。
案外救いは、たいがい、その書き手のなかでも陳腐になったことしか書けないことかもしれない。だから、読み手にとっては、言葉通りに受け取るだけでなく、どっちに向かう可能性があるかみたいな感覚的なものだけが重要だ。しかし、これは社会的に「評価」できない。
評価はかくして、こきざみにすべての可能性をすくい取ろうとする方向性もありうるわけだが、それは上の可能性や全体性を捕らえる人のみができることである。もうそんなことを出来る社会ではないのは、周知の如くだ。教育においても、自由にやらせてもらって失敗したらこっぴどく怒られるのと、怒られないけれども褒められてんだかけなされてるのかわからない指示がすごい数あるのと、どっちが修正能力がつくかといえば、前者である。しかし、そういうことに堪えられないのが最近の社会である。おそらく、全体性=可能性というものを根本的に懼れているからではなかろうか。
私の感想に過ぎないが、――東浩紀氏じゃないけれども、自説を「修正」する能力が、面談入試みたいなものではどうも計れない、どころか積極的に看過される、という感じがする。
そういえば、いままで経験してきたなかで一番「上手だな」と思ったのは、小学校の頃、松本の山辺小学校のコンクールの合唱かなにかの実演である。いまその録音をきいたらなんてことないのかもしれない。しかし、同じ曲をやってた、近くの学校だ、同じ学年だ、みたいな条件が相手の演奏をすごく巧く感じさせる。こういう経験をすると、ベルリンフィルやウィンフィルはうまいなあとか言うてる趣味人は事態の半分しか理解していないとおもう。確かにベルリンフィルを近くで聞いたら、ほぼ恐怖みたいなうまさだったのだ。しかし、上の可能性と全体性とは、山辺小学校とベルリンフィルの二つの焦点を綜合するところででてくるのだ。どちらかだとナショナリズムとグローバリズムという対立に巻き込まれてしまう。これを老人と若者の対立といっても同じ事である。
世の中、あいかわらず若者と老人の対立で喧嘩している。例えば、若者に味方する身振りで、――時代によって言葉とか習慣が変わるとかいう一見正しそうな論理があるが、過去を振り返るとそんな簡単にはいってねえし、何が正しいかを考えるのを放棄しているという意味で、端的に阿呆なのか日和っているだけといへる。そもそも若者はだいたい勉強と経験不足でバカだし、一方、お歳をめしてくると見た目は悪いしいろいろと鈍くなってる。しかし、そんなことは批判以前に当たり前のことに過ぎず、お互い苦痛ではあるだろうが「問題」ではない。
確かにその「問題」ではない苦痛が一定水準を超えると、問題にたどり着けない社会になってしまうのはたしかなのだ。例えば、人生100年時代とかあまりに愚劣すぎて話にならないスローガンだが、確かに動作も頭もゆっくりになった人といかにつきあうかは大きな苦痛であることを否定できようがない。本人も他人もそうだ。それは多様性とかの「問題」解消するにはあまりに大変なことだ。多様性以前に同一性の崩壊で、それはさしあたり仕事のプロセスの崩壊を意味する。仕事は、同じような作業を同時に並行して同じ地点で評価してみたいなことの連鎖で成り立っているので、そこに多様性を入れるとだいたい同一性に見えるための尻ぬぐいをしていないふりして誰かが大量にやらなければいけなくなる。つまり違う意味で不公平になるわけだ。で、こういう不公平を我慢できないのはマジョリティのおごりとかではない。むしろ心優しい人がそれを引き受けているからである。だから多様性の問題にはならないと言っているのである。これは最後まで、弱い人や優しい人をいじめてしまう、差別の「問題」である。
言うまでもなく複数の選抜方式が入試に存在しているのは根本的には差別的で不公平であり、多様性の保証に結びついているとは限らない。コミュニケーション能力なんて面接で分かるはずないし、推薦入試なんか、――校内推薦をかちとるために、勉強はいまいちで部活にのめり込みもせずみたいな妙な立場で目立つ必要があり、つまりそういう特異なタイプ、むしろ選抜されないタイプを選抜してしまう皮肉な事態を起こしている。これは選抜試験に向けて走っている人間にとってフェアではない。ただ、選抜の多様性みたいな議論がでてきたこと自体は必然である。たかが大学入試の成否でなにかが左右されすぎだからだ。しかし一発勝負の試験はそういうもので、そういうものに過ぎない。そして、面接で我々が欺される愛想みたいなのはもっとそうだ。刹那の勝負なのである。この点から見れば、長い間を堪えて推薦された人間にとってフェアではない。
しかも、ほぼ生徒の自治活動だった部活ならともかく、教師の管理に依存している状態で行われている部活なんかでは、もうそこで養われる「コミュニケーション能力」は昔のイメージとは違ったものに変容していると思われる。こういう能力は長い間観察してみないとなんともいえないものだが、そこには観察者との関係が大きく作用しすぎるのである。
一方、筆記試験に必要な記憶力だってさまざまなものがつながって形成されてるし、問題によっても何らかのことが幸いしてできたりできなかったりするわけで、問題自体が全ての人間にとって公平ではないが、それを抑圧するのは知的な営為それ自体を否定することだ。教科書である程度振幅の範囲は狭められてはいるが、いつも試験範囲は漠然としたものであるほかはない部分が残る。それを記憶力とか思考力とかに抽象したり、だからこそ逆にそうでないものを筆記試験以外のもので評価しようとしたりしてしまうわけだが、――すごく現実への評価からは離れていることにかわりはない。
――結局、根本的には、大学入試が規模的に研究者・役人志望を想定したものでなくなっていることを気にしすぎて、いろいろな選別方法を考えるのはいいんだが、それによって細かな矛盾や差別がどうしようもなく起こるわけである。
人や書類を評価するときにやたらチェック項目をつくってその足し算で評価する方法も同じような事態で、これをやると、愛想がいいとか書類として整っているとか本質的にはどうでもいいことが相対的に高くカウントされてしまう傾向にあると思う。不公平をなくそうとして本質的には間違うパターンだ。恋人を選んだ理由を聞いたら「優しいところ」みたいなことを言う人っているが、それが単純そうに見得るからといって、そういう人に「もっと総合的に選べよ」とかいわない。優しさのなかにいろいろ何かあって優しさですらないかも知れないがいいものはよかった訳である。そんな単純なことがわからなくなっている社会では、非本質的な部分的評価が暴走してしまうのである。