万事莫貴於義也
確かに天の意志を高唱するよりもこういう発言の方がよほど勇気がいるようなきがする。で、少しでも現実の組織を動かそうとする人間にとっては勇気を支えるものとは何かを現実的に考えておかなければならない。天の意志では足りないはずだと思う。
文字を扱う研究者がときどき陥るのは、ここまで機械的な発想をしているんだから世界もそう見えていたはずだみたいなもので、わたくしはそういうときには当時の絵画なんかをみるようにしている、音楽はどうもますます抽象的にみえるたりするんで。。。
もっとも、テレビが視覚的なものを遮るようになってからは、そう簡単に視覚的なもので現実を回復するわけにはいかない。私の世代はガンダムに人生を教わったという人が結構いるが、より正確に言うならばテレビをみていたというべきなのである。
現実とは、積雪のようなものだ。むかし山国に居た頃、積雪も30センチをこえたあたりから急激に恐怖そのものにかわる感覚があった。寝ていてもわかるかんじね。これは単に朝起きて雪かきをすることへのそれではない。雪が溶ける地域はいいのだ、一度降った積雪は春まで溶けない。一度積もったものは思うより長引いて存在する。雪だけの話ではない。
わたしは昔から病気が多かったから、病気になりかけの時、体が病気になりたいと脳に呼びかけているのかどうか知らないが、そういう声が聞こえる。死にたくなるときなんかが来るときにはたぶん同じようなかんじなのかなと思う。病気は外からくるものもあるかもしれないが、結局、自分の体の意志がそうさせる。こういうのを天の意志とか言い募ることも出来なくはなかったと思う。
かまくらに妹たちと一緒に入ってたときは楽しかった気がする。室内が氷点下になるようなところで育ったせいか、冬はちゃんと厚着をして暖かくしなければならないという習慣が身についていない。凍えそうになりながら掘り炬燵やだるまストーブの側で体を炙るのが冬だと思っているところがある。もうそんなものはないのに。
プロコフェエフの「スターリンへの祝詞」は極寒の恐怖政治時代に書かれている。彼がこれを依頼されたとき、妻子をシベリヤに人質にとられていたそうである。ロシア語がよくわかんない我々にとってこれ幸いである「雪がやんで日が差してきたよ雪が解けてもうお前も逮捕されないよマックも食べられるよ不倫もできるよお前を愛してるー」みたいな歌詞として聞くと涙が止まらない曲である。プロコフィエフは、ショスタコービチと違って、なにか少女性みたいなものを描くことに長けていた気がする。たぶんショスタコービチの方がフェミニストなのに、機械化されたコサックダンスみたいな感じになっているのは面白い。最近読んだ論文に、高峰秀子が成功したのは少女性と母性両方できたから、みたいなこと書いてあった。ちょうどその間に戦争があって若い働く女性役が少なかったというのはあるわけだが、本質的にいまでもそういうことはある。若い働く女性は戦時下のように存在が危うい。プロコフィエフのメロディは、そういう危うさを慰める。
まったく為政者というのは、とんでもないやつが多い。モラルを自覚したり社会を改良したりすることで解決することが案外すくないということが出発点だが、案外少ないからといってやめた方がいいのではない。でも案外少ないことが分かってないやつは携わらない方がよいのだ。こういうことだけが絶対にわからないような奴がいるのを、人は大人になってからようやく知るのだが遅すぎる。
卓球の愛ちゃんがテレビにではじめたときに、学生時代卓球一生懸命だった父が「学生時代でも勝てたかどうかあやしい」と一瞬で断言したのはよいと思う。我々の父の世代が優れているのは、勃興する過剰な女性達の姿を視野に入れていたことだ。これはフェミニズムとは関係ない、大衆的なものである。
国会議事堂の前にしゃがんで「ガン!」と一発やってみたいものである。あいまいな日本語で、事実をはぐらかし「ああでもない」「こうでもない」あげくは「やっぱりこういうことになります」などと答弁する大臣どもを、束にして吹き飛ばしてやりたいと思う。(高峰秀子)
学生運動のエンジンとしてのヤクザ映画の影響とかも屡々指摘されるわけであるが、吉永小百合が恋人と心中するみたいな映画もどこかしら影響がある気がしてならない。「世界の中心」でとか「部位を食べたい」みたいな映画は、恋人が逝くのを傍観しているが故にふつうにノンポリを生み出すにちがいない。そういえば、結婚は引き延ばされた心中なのではないだろうか。結婚も心中も、法の外にでることなのである。
最近は映画俳優もスターになりきれない。で、最初にわけ分からない人物を演じるとその余波のためか、近づきがたさがオーラの副音声みたいに生じ、ちょっとスターみたいな感じになるのを、二階堂さん、吉高さん、満島さん、浜辺さんなんかでも確認できるかもしれない。これは女性達を疎外することである。授業のためとはいえ、なにゆえわたくしがを買わにゃならんのだと思ったが「推しが武道館いってくれたら死ぬ」の第一巻が届いた。まだ読んでないが、女性達を殺人教唆犯にするつもりなのか。