★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

世にこの道の勤め程かなしきはなし

2024-02-19 23:59:14 | 文学


 身にそなはりし徳もなくて、貴人もなるまじき事を思へば、天もいつぞはとがめ給はん。しかも又、すかぬ男には身を売りながら身をまかせず、つらくあたり、むごくおもはせ勤めけるうちに、いつとなく人我を見はなし、明暮隙になりて、おのづから太夫職おとりて、すぎにし事どもゆかし。
 男嫌ひをするは、人もてはやしてはやる時こそ。淋しくなりては、人手代・鉦たたき・短足・兎唇にかぎらず、あふをうれしく、おもへば世にこの道の勤め程かなしきはなし。


今回の大河ドラマは昔の高級少女まんがの趣であって、――しかし、それにしても、最近、男の上半身裸でなにかを語ろうとしてるみたいなところが、よくわからんが、ジェンダー論への目配せもあるのか知らんが、結局男視点?の恋愛がいろんな好色へ移行してきただけのような気がするのだ。しかし好色の世界は、無論であるが、強烈な差別の世界であって、上の如くだ。

先日は、紫式部が道長からの恋文を焼き捨てる場面でおわっているわけだが、彼らはやはり上流階級であって、差別をなくすため、わたくしみたいな庶民が間違って焼いてしまったりした方がよいのだ。現代の少女まんがの時代では、顔がよいという上流どうしの恋愛が紙の上で上映された。恋に恋にするのは前恋愛的なだめなものとされたが必ずしもそうではない。恋に恋する状態でないと本読みにはなれない。わたくしは本読みであり、しかも色恋にあまり興味がなくなってきたのであってみれば、わたくしは十二単衣の美女しかみておらんので、もはや少女マンガであってもなくても関係がない。

而して傍観者もここに極まれり、といったところであるが、――これに対して、教師のみなさんは、あいかわらず、国家と人民と自らの脆弱さに包囲されて傍観どころの話ではない。包囲されている新人教師達に必要だったのはストレスがかからないなかでのニコニコ面接でもコミュニケーションでもなく、厳しいペーパーでの入試と実習とそれ以上に厳しい卒業論文だ。そりゃ必要な資質はあるよ、しかしそれだけをみつけようとしても上手くいっていないではないか。自分の学力のなさに怯えて鬱になるかわいそうな学生をつくっただけであるようにみえる。

小説や批評文を読むことというのは読解力みたいな抽象ではなく、プロセスと時間に堪えることで、それをやらないやつが学校の現実のプロセスと時間に堪えられるわけがない。幸運なことにというか、――学校の生活というのは案外章にわかれた小説みたいなところがある。だめな教師はそれを駄作の兵舎ものにしてしまうだけだ。

職場がこれほどある特定の人間にオンブにだっこ状態になるのは、プロセスと時間のことを考えられない、ミッションの奴隷が大量にいるからだ。むろんもともとはそれにしたがわせようとした馬鹿がわるい。小学校なんかの学級の目標は「学校で一番赫こう」みたいな**みたいなものでも随わせようとする人数が少ないし、子どもが**に随うお人好しが多いのでなんかの効果がある場合がある。しかしこういうのに慣れると、逆に社会の組織とか、ひいてはもっとでかい国民国家において何を掲げて、どういうプロセスを踏んでみたいなことがわからなくなるんじゃねえかなと思う。古文漢文不要論とか言ってる輩はだいたい学校で一番赫こうみたいな奴である。