★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

天とイメージの世界

2024-02-03 20:00:51 | 思想


然則何以知天之愛天下之百姓。以其兼而明之。何以知其兼而明之。以其兼而有之。何以知其兼而有之。以其兼而食焉。何以知其兼而食焉。四海之内、粒食之民、莫不犓牛羊、豢犬彘、潔為粢盛酒醴、以祭祀於上帝鬼神、天有邑人、何用弗愛也。且吾言殺一不辜者必有一不祥。殺不辜者誰也。則人也。予之不祥者誰也。則天也。若以天為不愛天下之百姓、則何故以人與人相殺、而天予之不祥。此我所以知天之愛天下之百姓也。

天は意志を持っている、民を兼愛している、あまねく照らしている、みんなを所有しているので、――我々はそれを命令として認識すべきはなく、我々がなんとなく天にものを貢いだり罪に罰を与えたりすることが天が我々を愛している理由だということであろう。もっとも、こういう論法は、天誅だ、みたいなことを言いたい時に使えるかどうかわからない。兼愛によってそれは禁じられてしまうからである。習慣を説明するような哲学は、心理的推移に対する効用に欠けるときがあるというのはそういうことである。

われわれの社会は、習慣の世界ではなく、心理的推移の世界に変わっている。だから、正月やお盆でさえ心理的な葛藤としか感じられないひとが多い。これでは天は所有できない。というわけでひゃないだろうが、読点だけでなく句点さえも天の命令っぽく感じられる過敏な人たちが居るようである。いわゆる「マルハラ」というのやつである。普通に考えて――中年男性の腹および妊婦へのヘイト、及びモーニング娘。とかへのアンチとみなされよう。

昨日、テレビでふつう坊さんとか神父が人生を語る番組で、ドリアン助川氏が美事に悟っておられた。だいたい叫ぶタイプというのは、心を静めるために悟る必要があるのではないかと思う。彼は、川原でコーヒーを飲んでいた。すると、太陽をみている存在そのものとなり太陽と一如となったそうである。そういう体験をもとに「積極的感受」みたいなことが重要だと言っていた。たぶん、この果てには、我々には感受された存在全体――天そのものしかないのだ、みたいな主張にゆきつく。

本当に積極的に感受が必要なだけなのであろうか。例えば、わたしの親の世代は、中日ファンでも日本一を新聞記事でしか知らなかった人がたくさんいたそうだ。一体ファンというのは何だろう。そもそも好きな対象が見えること自体が異常なのではなかろうか。太陽も花も見えないけれどもあるのではなかろうか。イメージの世界である。

われわれは天をひっくり返したり元に戻したりする日常を大事にする。例えば、大リーグにいった日本人が、チームメイトから、かつての我が国におけるように「あいつらアメリカの野球舐めてるとこあるじゃないっすか」と言われだしたらついに脱植民地といへようが、こういうものはイメージの世界である。このイメージの世界は、我々から離れない。

太宰治の世界は、言葉と人間の間にあるイメージの世界をにおわすのが上手かった。だから、太宰の読者は、主人公と共に、世界のなかで仮面を被って引きこもる自分を永遠に慈しむことができる。言葉=仮面はイメージをまもる。いまおもったのだが、YOASOBIの「アイドル」の歌詞、――「何も食べてない」とか「人を好きになることなんてわからなくてさ」とか、ほぼ設定が「人間失格」だ。途中の闇ラップみたいなところで「ハイハイ二匹の動物が居ました」みたいにすれば完璧である。