今執無鬼者言曰、鬼神者固請無有、是以不共其酒醴粢盛犧牲之財。吾非乃今愛其酒醴粢盛犧牲之財乎。其所得者臣将何哉。此上逆聖王之書、内逆民人孝子之行、而為上士於天下、此非所以為上士之道也。是故子墨子曰、今吾為祭祀也、非直注之汙壑而棄之也、上以交鬼之福、下以合驩聚衆、取親乎郷里。若神有、則是得吾父母弟兄而食之也。則此豈非天下利事也哉。是故子墨子曰、今天下之王公大人士君子、中實将欲求興天下之利、除天下之害、當若鬼神之有也、将不可不尊明也、聖王之道也。
ここに墨子の鬼神論の矛盾がでているという人も多いのかも知れない。鬼神の福を求めみんなで喜び合って、みんなで親密になることがこれ鬼神の存在があるということであり、その存在を明らかにすることが我々の鬼神への行為としてある、でそれは現実的にも政治のあり方としても「聖王の道」である。だから鬼神そのものを疑うのではなく、明らかにすることそれ自体を行為すべきであってそれでよいのでは、と言っているようにみえるから、――もうそれでよいのではないだろうか。
われわれにとって鬼神とは、誰かがちゃんとしてくれているという安心感そのものだ。ネットがない時代は、ちょっとひどいことがあったぐらいで鬼神の如く「世界が爆発しないかなあ」と思いすっきりしたものであろう。爆発せずにきちんと誰かがやるし自分もやらなければならなかったからである。が、ネットで半端な世界を覗くと「便所を清掃しろ」みたいな具体的なあれになり鬼神になる暇がない。で、じぶんで掃除もしない。そのかわり、世界のことを気にし続ける地獄から逃れられない。
そういえば、知能検査みたいなのが世の中にはあって、考えてみると、これはどういう方向に対して働く知能なのかよく分からないのだが、かくいう私も30歳前後の煮詰まっていた頃、かなり高い数値がでたことがある。が、小1の頃、なにをやっているのかそもそも理解できずに外を眺めていたため、当時はものすごく人に言えない数値が出ていたことであろう。いまも私はそういうとこがある。庭の蛙と同程度の頭になっている瞬間があるからだ。
しかし、それもたぶん呆けているだけなのである。昨日、ETV特集のアイヌ三代の番組をやっていたので、みた。そのアイヌの祖父は、差別されるアイヌの出自を抜け出したいと満州に渡り、敗戦後帰ってきてアイヌの運動の先頭に立った人物らしかった。このような軌跡はある意味で左翼運動や右翼運動にすらあったものだ。番組はどこか記憶の継承と自然との共生みたいな話にもって行ってしまったけれども、アイヌの運動と言えども、近代のマイノリティの復権・抵抗運動の枠内で発想されてしまう。先住民の権利にそこまでこだわる必要はないという圧力の他に、親に対する子の自由みたいな価値が大きな障害となって立ちはだかるし、マイノリティ運動との連帯も限界がある。「抵抗運動」のあとのありようはみな同じようなあり方をしている。――少なくともテレビの番組のつくりはそういう感じになってしまっている。孫(私と同い年)のアイヌの発言なんかをみると、もうどことなく目的を失っているのがわかった。抵抗運動は近代によるトラウマの伝承にかならず失敗する運命にある。近代によってそのトラウマが意味づけられてしまうからである。かくして、人類学が、失われたものを求めて彷徨するはめになる。
「木下先生はいつも私に、女ってイヤだ、イヤだと仰言るけど、この私だって女ですよ」
「いえ、秀ちゃんは女じゃありません。男です」
「え?!」
「秀ちゃんには女っぽいところなんか全然ないもの、立派な男です」
「!」
――高峰秀子「わたしの渡世日記」
木下惠介はそりゃま女が性的な意味でも嫌だったんだろうが、むかしのひとのなかには、男とか女とはかは、属性ではなく、努力して成る文化的な何者かでみたいなところがある場合がある。いまのほうが逃れられない属性みたいに捉えられているところある。高峰秀子には確かに立派な男ですみたいな感じがあるが、これをすべて映画界とか彼女の置かれた境遇によるジェンダーの偏向にもっていく人が多い。人の人生を舐めているとしかいいようがない。
韓国映画「JSA」をむかしみてよかったと思うのは、境界線上の戦士達の戯れは、友情でもなければ、ホモソーシャルでもなく、遊びなのである。だから、遊びが終われば普段の戦士として頭が狂う。しかし、それだと死ぬ確率が高い。戦場で重要なのは、沈着冷静であることだ、という北朝鮮の歴戦の戦士が言っているのはそういうことだ。戦士であっても戦士でないことがありうる。生きるためにそれが必要なのだ。男や女だって同じ事だ。恒にわれわれはどちらかになりつつ生きているところがある。
よく宮台真司とかが言う、苦行の人格形成に対する必要性というのは、私も同感するところだ。しかし、それを集団に課すときになぜかものすごくやばい人間だけがそれを成功させる点は看過できない。集団のなかにその苦行を対象化できないやばいやつがたくさん混じっているためとも思うが、とにかく大概ひどいことになる。理念は弁証法的な媒介として働かないのである。それを統制的理念と言い換えても同じ事だ。
重要なのは、「秀ちゃんには女っぽいところなんか全然ないもの、立派な男です」というせりふを想起しつつ、やるべき事を行いのんびり過ごすことではないだろうか。