★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

表情・仮面・死・生

2024-02-06 23:44:10 | 文学


墨子は、帰りの道はややゆっくり歩いた。[…]しかし、行きのときよりもひどい目に合った。というのは、宋国の国境へ入った途端に二度も取り調べを受けた。都城の近くへ来たとき、救国義捐金募集隊につかまって、ぼろ風呂敷を寄付させられた。南門外に着くと、こんどは大雨にあって、城門の下へ雨宿りをしようとすると、武器をもった二人の巡邏兵に追い立てられて、全身びしょ濡れになり、お陰で十日以上も鼻がつまってしまった。


――魯迅「非攻」


魯迅の悪口はあまりきかんのう。卓越した作者にはどこかしら、機械的もののバリエーションを好むところが有り、魯迅にもどこかしらそれを感じるのだが、機会があったら書いてみようと思う。そういえば、バロック音楽を「古楽の楽しみ」で延々きいてると、バッハというのは一種のシェーンベルクだったんだなと思えてくる。

この機械的なものとは、着地点をどうつくるかみたいなセンスと関係がある。しかしそこにはどこかしらずらされたものがあって、バッハの曲の最後の直前の輝きみたいなものだ。先日横道誠氏のカント論を読んだが、最後はフーコーの「言葉と物」の表情の云々のあれかと思ったらほんとにそうだった。まだわしの勘も死んでないぞ、と思ったが、フーコー同様、横道氏も羞恥心の持ち主であって、少ししゃれた終わり方がなされていた。

先日、夕飯時にテレビつけてたら、むかし仮面ライダーのバイクのスタントマンやってた人がでていた。彼は仮面ライダーに変身する人の役のひとたちとも仲良かったと言い、だって同一人物だし、みたいなことを言っていた。もともと仮面を被るというのはそういう機能もあったにちがいない。同じ仮面を被りゃ同一人物みたいなことである。それは足し算しかできない、全体主義的協働論者の刺青とは異なるものだ。彼らは女学生におなじガスマスクをつけた時点でなにか間違えてしまったのである。確かに仮面は同質性を保証すると同時に同質性を求めて増殖するのだ。で、どんどんシリーズ化するそして見る方は被ることもせずに仮面にシンクロするようになる――と思いきや、そうはうまくいってないのだ。わたしは田舎もんなのでとにかく、あのバッタ顔が本物のバッタと最後まで摩擦を起こす。

どこかしらそういう場合に、ファンタジーはイメージの勝手な自走みたいなことが起こる。安房直子ってほとんど読んでこなかったんだが、このひとはガンダムの監督と同世代で、妙な目的が失調したようなファンタジーが気になる。どういうことなんだろう。山室静の影響かなんかがあるんだろうか。それらはどことなく、だささや気恥ずかしさを伴う。

我々が考えるナショナリズムだって、おなじようなノイズだらけである。戦後の子どものなかには、小学校低学年で公害とか税金とか天皇制みたいな言葉を聞きかじってエラそうにしていたやつがたくさんいたはずだ。それに対して、天皇の名前を神武から教え込もうとするおばあちゃんや、ラジオで天皇陛下の声を生で聞いたとマウント取りにくるおばあちゃん達がいて、祖父たちが執拗に黙っていた――こんあ風景がそこここにあったはずなのである。

わたくしが、どうも認知言語学なんかの議論が苦手なのは、上のような風景が処理できないからだ。

竹内勝太郎ってあまりちゃんと読んでこなかった。書くことやそれに修正するのに忙しくて、つくば市の下宿の部屋に山積みになった古本をいまでも思い出す。大学院の頃、花畑という所に住んでいたのである。フラワーハイツという古びたアパートであった。床の穴からねずみが出て、窓からは空き地の草原がみえていた。グーグルアースでみたら草原は住宅に、アパートも駐車場になっていた。おれもいないから一度おれは死んでるとしかいいようがない。古本を傍らに死んだ。

これに対して、香川で出会った讃岐うどんは食べようとすると、ぴよんびゆんざぼんとどうみても生きてる。