孚乃利用禴。无咎
ビギナーズクラシックの訳だと「捕虜は春のお祭りの犠牲に使うのがよい。災難をのがれる」である。
易経を読んでいると、我々のあたまは論理より先に象徴物が移動しながら飛び交っていて、例えば、AではないBは、Aの否定ではなく肯定であり、AとBの価値がどうひっくりかえるかわからないと思われてくる。AとはBだからである、みたいなことは容易に起こる。だから、「常識的な感覚」によるAそのものの属性から離れてはいけないのではないかと私なんかは思うのである。
例えば、あいつは作品や仕事はすごい(A)のになぜ人間的にカス(B)なのかという言い方は常識的に考えて、「あいつ」が恐ろしくすごいときにしか使えない。すくなくともそういう言い方で小学生とかそこらの凡人を教育すべきではない。テスト100点(A)と根性が腐っている(B)こととは何の関係もないし、ほんとはたぶん100点じゃなくて、たいがい67点ぐらいなのである。――しかし、われわれは、こういう現実からつねに逃れてAとBの関係を自由に組み替える。
たしかに、確定申告とかってぎょっとする(A)ところあるけれども、あんまりその難しさを騒ぐと、また教育課程に税金関係の事項をくわえろ試験しろ国語は書類作成を中心に行えみたいな主張(B)がでてくる。これだって、AとBの混乱である。
そういえば最近、「なろう系」というのがもはや熟した言葉だというのをしったが、ここにはかならずAがぬけてBになろう、だけが言われている。まだ誠実なのかもしれない。
こういう混乱を避けるために、我々は「舞姫」みたいに、旅の終わりからの視点を必要とする。AからBではなくBからAへの遡行である。ただ「舞姫」は結局Bにおいて豊太郎がどの程度の人物であるのかはっきりしないから、Aのプロセスだけが問題にされてしまった。中沢新一は『精神の考古学』でレヴィ=ストロースに倣うように、自分の若い頃の旅を振り返っている。中沢氏は鷗外のように若い身空では書けなかったのである。鷗外で、そういうことに気付いているからこそ「妄想」を書いたのだ。それらは、小説ではなく、随筆なのかなんなのかわからないスタイルを取らざるを得ない。自分の人生を、AだからBという論理には必ずしも還元できないからである。
AだからBであるというのを自由にやるための易経であろうが、――それを単にBへの指針ではなく論理として読解しようとすると、普通に難解であたまがおかしくなってくる。占いによる鎮静作用はあるのかもしれないが、その逆もかなりおおきいんではなかろうか。
世の中で一番占いで隆盛を誇っているのは恋占いである。もう流行りすぎて、最近は神社仏閣はだいたいその占いのパワーを大きくさせる「パワースポット」みたいなことになっている。神道や仏教よりも易の方が強いね、もはや。人間に誰が誰と合うかみたいな高等なことは判断できない。趣味が合うとか、人生観がおなじとかは信用できない基準である。結局、わたくしの場合は、仲間はずれにされがちな人に優しいか(吾はマイノリティとかいう主張をする人に非ず)とか、群れの真ん中にいないとか、幇間が出来ないとかが重要でそれで結婚したようなもんなのだ。これがもはや「自由」恋愛ではないことは明らかである。「自由」は、もっと合わなさそうなやつとも自由に交際できることである。それは多くの人間が学校でスクールカーストじみたものに適応しているような状態では無理だ。結局だから、マッチング何とかとかお見合いシステムが復権してくるのだ。機械による偶然のほうが面白そうだからな。。。結局、これは占いの一種なのである。
風の交叉点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり
――穂村弘『ドライ ドライ アイス』
文学は、こういう偶然をロマンスとして語りすぎるところがあるから、罪が重い。