★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

易の勝利

2024-02-23 23:43:18 | 思想


孚乃利用禴。无咎


ビギナーズクラシックの訳だと「捕虜は春のお祭りの犠牲に使うのがよい。災難をのがれる」である。

易経を読んでいると、我々のあたまは論理より先に象徴物が移動しながら飛び交っていて、例えば、AではないBは、Aの否定ではなく肯定であり、AとBの価値がどうひっくりかえるかわからないと思われてくる。AとはBだからである、みたいなことは容易に起こる。だから、「常識的な感覚」によるAそのものの属性から離れてはいけないのではないかと私なんかは思うのである。

例えば、あいつは作品や仕事はすごい(A)のになぜ人間的にカス(B)なのかという言い方は常識的に考えて、「あいつ」が恐ろしくすごいときにしか使えない。すくなくともそういう言い方で小学生とかそこらの凡人を教育すべきではない。テスト100点(A)と根性が腐っている(B)こととは何の関係もないし、ほんとはたぶん100点じゃなくて、たいがい67点ぐらいなのである。――しかし、われわれは、こういう現実からつねに逃れてAとBの関係を自由に組み替える。

たしかに、確定申告とかってぎょっとする(A)ところあるけれども、あんまりその難しさを騒ぐと、また教育課程に税金関係の事項をくわえろ試験しろ国語は書類作成を中心に行えみたいな主張(B)がでてくる。これだって、AとBの混乱である。

そういえば最近、「なろう系」というのがもはや熟した言葉だというのをしったが、ここにはかならずAがぬけてBになろう、だけが言われている。まだ誠実なのかもしれない。

こういう混乱を避けるために、我々は「舞姫」みたいに、旅の終わりからの視点を必要とする。AからBではなくBからAへの遡行である。ただ「舞姫」は結局Bにおいて豊太郎がどの程度の人物であるのかはっきりしないから、Aのプロセスだけが問題にされてしまった。中沢新一は『精神の考古学』でレヴィ=ストロースに倣うように、自分の若い頃の旅を振り返っている。中沢氏は鷗外のように若い身空では書けなかったのである。鷗外で、そういうことに気付いているからこそ「妄想」を書いたのだ。それらは、小説ではなく、随筆なのかなんなのかわからないスタイルを取らざるを得ない。自分の人生を、AだからBという論理には必ずしも還元できないからである。

AだからBであるというのを自由にやるための易経であろうが、――それを単にBへの指針ではなく論理として読解しようとすると、普通に難解であたまがおかしくなってくる。占いによる鎮静作用はあるのかもしれないが、その逆もかなりおおきいんではなかろうか。

世の中で一番占いで隆盛を誇っているのは恋占いである。もう流行りすぎて、最近は神社仏閣はだいたいその占いのパワーを大きくさせる「パワースポット」みたいなことになっている。神道や仏教よりも易の方が強いね、もはや。人間に誰が誰と合うかみたいな高等なことは判断できない。趣味が合うとか、人生観がおなじとかは信用できない基準である。結局、わたくしの場合は、仲間はずれにされがちな人に優しいか(吾はマイノリティとかいう主張をする人に非ず)とか、群れの真ん中にいないとか、幇間が出来ないとかが重要でそれで結婚したようなもんなのだ。これがもはや「自由」恋愛ではないことは明らかである。「自由」は、もっと合わなさそうなやつとも自由に交際できることである。それは多くの人間が学校でスクールカーストじみたものに適応しているような状態では無理だ。結局だから、マッチング何とかとかお見合いシステムが復権してくるのだ。機械による偶然のほうが面白そうだからな。。。結局、これは占いの一種なのである。

風の交叉点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり

――穂村弘『ドライ ドライ アイス』


文学は、こういう偶然をロマンスとして語りすぎるところがあるから、罪が重い。

有馬天神社を訪ねる(兵庫の神社5)

2024-02-23 19:11:07 | 神社仏閣


神社明細書によると、有馬天神社は昔々の天元2年(979)にできたらしい。京都の菅原道真のあれであって、それ故か?そのあとの平安時代は荒れ果てていたらしい。そろそろ平安も終わりの頃なんか大洪水とかもあったのだ。建久3年(1192)に再建されたが、結局位置的に温泉の鬼門除け神社として機能していたらしい。



というか、この有馬温泉の辺り一帯が、なにか釜ゆで的地獄みたいな感じがして鬼も早々に帰宅するようなきがしないでもないのだ。



ひっそりと小さい神社も寄り添っている。



本殿。



いい顔である。



お金にまみれて身動きがとれない。



神仏習合してたから蘭若院阿弥陀坊が傍らにあったらしいが、寛正4年(1463)4月13日に火事で焼けた。同年6年(1465)仮殿建設。がっ、明治5年に例の分離政策で無住となり寺院廃止。なんだかんだあって、敗戦。しかし、生きよ墜ちよの風の吹く昭和23年(1948)、「温泉の湧出量減少に依り境内地に源泉を掘り、以来80余度の温泉の湧出を得」たらしいのだ。

富岡は、魚屋を本業にしてゐる男が、若いおせいと同棲する為に、この伊香保の温泉町に住みついた気持ちが、何気なく唄はれる林檎の唄声に乗つて、心のなかにしみじみと判るやうな気がした。おせいは泳ぐやうなしぐさで、向う側へ行き、さつと上つて行つたが、大柄な立派な後姿が、富岡には、いままでに見た事もない美しい女の裸のやうに思へた。矢も楯もなく、富岡はおせいの裸が恋しかつた。後姿に嗾かされた。いきなり、富岡もその方へ泳いで行き、おせいのそばに上つて行つた。湯殿の廂を掠める、荒い夜の山風がぐわうぐわうと鳴つてゐる。
「背中、流しませうか?」おせいが云つた。


――林芙美子「浮雲」

温泉がでてくる不倫小説とか、世の中に腐る程あるのであり、戦後にもたくさんある。映画、林芙美子の「浮雲」なんか、高峰秀子様が初の裸体(半分)で出現、「みだれる」でも若大将がなんか死んでいた。戦後の苦労のなかで何か温泉に入って人生やり直す機運でもあったのか。人間うつむき加減でいるときにはやはり掘り当てるのである。昔、神代の時代にもひどい戦争の後、うつむいて穴でも掘っていたらお湯が出たのかも知れない。

解放と古典

2024-02-23 05:44:22 | 思想


九四。解而拇朋至斯孚。
六五。君子維有解吉。有孚于小人。


拇でも小人でも解放されるとよい子とが起こる。この感覚は、いまもわりとある。ある小さいものの解放である。鷗外はとてもそれをよく知っていたように思う。漱石はそのかわり、全面開放みたいな文章になっている。鷗外の文章は確かによいものがたくさんあって、むかしわたくしもたくさん書き写した。ただむりに口語的に解放されくだけるときの躊躇いのなさがあまり好きではない。一葉のほうが100倍すきだ。これはもう真似できない気がする絶望が私にあるからかもしれない。それに一葉の文章には解放がない。これが私が好む理由でもある。

解放は春への解放だ。これだけの暖冬だと雪もとけていいよね、みたいなことをいう日本人民がいるけれども、つもった雪が最高気温15度ぐらいが数日続いただけでぜんぶ溶けるわけないし、逆に一度溶けた雪は兇器の氷の塊になる。それが屋根から高速で通学路に滑って飛んでくる。この緩みや解放に対する違和感がわたくしにはある。

古典に対する解放は、古典そのものの更新である。例えば、モーツアルトやベートーベンの曲に対してもっとかっこよく演奏できるはずだという運動は止まらない。ブラームスももっとかっこよくいけるみたいな演奏もたくさんあり、しかもまだまだブラームスはもっとかっこよくいけるはずだという欲求不満の度合いも高い。マーラーはどんな演奏でもだいたい昇天しているから関係なし。古典派とロマン派の違いは、こういう違いでもある。まだ絶対かっこいい演奏が出来るはずとかいうのはショスタコービチなんかもそれに含まれる。ソ連は、ロマン派に対する対抗言論であった。ショスタコービチに対しては、ほんとはもっとダサくやるべきみたいな考え方もあるくらいだ。これに対して、――専門家のなかではともかく、ケージやブーレーズの曲の名演とか凡演とかをあまりきかない。かれらの音楽は解放されきっているからだ。

文学でもそうで、もっと深く面白く読めるはずだみたいなものは減っている。それは作品の価値とはちがった問題であるのだが、聞く側や読む側に幻想を与える力というのが古典派の力であり、それが遠い過去の古典だから距離が出来てるからではない。

レヴィ=ストロースは、マルクス主義に対抗して、われわれのなかの古典派とロマン派のあらそいに終止符を打とうとしている。彼の本はその意味で広大なやさしさを持っている。一人一人を取りこぼさないとか言っている人がロマン派であって、たいがい人をやっつけているのと対照的だ。サルトルに対しても彼は優しい。

今でもロマン的にマイナー作家やマイノリティを応援することと、例えばプロレタリアートに即するみたいなことは屡々鋭く対立するものだ。いまでも彼らは「弱者の味方枠」みたいなとこころに押し込められて喧嘩させられている。