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おほかた、延喜の帝、常に笑みてぞおはしましける。そのゆえは、「まめだちたる人には、もの言ひにくし。うちとけたるけしきにつきてなむ、めだちたる人には、もの言ひにくし。うちとけたるけしきにつきてなむ、人はものは言ひよき。それば、大小のこと聞かむがためなり。」と仰せ言ありける。それ、さることなり。けにくき顔には、もの言ひふれにくきものなり。
ニコニコしていると、人は簡単にいろいろと喋ってくれる。確かにわたくしもなんだかニコニコしているたちなので、いろいろな人がわたくしに愚痴を垂れてきたものだ。で、わたくしはその醍醐的ニコニコのために愚痴を垂れることが許されない。大鏡の作者はそういうことをどう考えていたのであろう?醍醐天皇は権力を持っていたからそのニコニコが長所に見えるだけだ。
思うに、わたくしは博愛のほうが友愛よりいいと思う。友愛みたいなものは、そのニコニコのなかに権力の勾配を封じ込めてしまう。昨日の授業で、ブルジョアの政治的意味について講義したが、「自由、平等、財産」のスローガンがあったことの意味を言うのを忘れていた。博愛(友愛)は財産を隠蔽する。
よくみてみたら、キティちゃんというのはすごくかわいいものだ。この猫だか人間だかしらないキャラクターは笑っても居なければ怒っても居ない。我々のニコニコは、人から見るとこのような無表情であることがあるのではなかろうか。ニコニコに見えるのは、「面とペルソナ」ではないが、喋る方の嬉嬉としたテンションを相手の顔が吸収しているからではないのか。
昨日、寝る前に吉田あゆみ氏の『アイドルを探せ』を読んでたんだけど、古本で、キティちゃんのはんこ(所有者の名前がくっついているやつ)をみつけて、細があこれもってた、と言っていて、わたくしがまた同世代の大衆文化から疎外されていたことを知ったわけだが、重要なのはそんなことではない。このマンガの登場人物達の社交である。第1巻読んで思ったんだが、いま昭和的コミュニケーションのパワハラ的ななにかとは、このバブル期のあれなのではなかろうか。虚勢に本音をまぜながらのマウンティングがナンパの術になっているかんじというか自分でも何言っているかわからんが、当時からすごく嫌だった。で、たぶんダウンタウン的なものはこういう気取りを破壊したので面白かったんだろうが、同時に社交みたいなものも破壊したんだろうと思われる。
我々は、社交を失って、どちらかというと世界を恨むようになった気がする。その世界は、「神話」のように頑なに見える。かくして、研究者においても、だいたい神話というの、なにか洗脳状態の言い換えに過ぎない場合が多い。今日読んだ研究書に、この人(有名人)を褒めた研究にひとつも参考になるものはない、我々はこういう「神話」とたたかう、みたいなことが書いてあった。何か隠されたものを見出すために必要な態度であることは理解するけれども、結句、こういう姿勢が逆に褒めなきゃだめみたいな反発を生むし、やはりこれじゃだめだなと思った。戦前の人たちは、教室で古事記日本書紀の挿話を読んでるからそれに「洗脳」されていたのか?わたしも昔、指導教官に怒られたことがあるが、――作品の享受者をなめた研究というのはだめなのだ。だいたい証拠も2、3例なのに、それが世界=神話にみえている自分をうまく自覚する必要がある。