★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

我々の蜜の味

2024-01-25 23:55:11 | 文学


家あるじの、『木にこれ結ひ付けて持て参れ。』と言はせ給ひしかば、あるやうこそはとて、持て参りて候ひしを、『なにぞ。』とて御覧じければ、女の手にて書きて侍りける、
勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ
とありけるに、あやしく思し召して、『何者の家ぞ。』と尋ねさせ給ひければ、貫之の主の御女の住む所なりけり。『遺恨のわざをもしたりけるかな。』とて、あまえおはしましける。


梅の木を持ってこさせたら、その梅の木の植わっていたのは貫之の娘の家で、さあご命令なんで献上するのですがこの木に来ている鶯が宿はどうなったのと聞いてきたらどうしましょう、という歌までついていた。むかしの人にとってこれが美談になってしまうのだから、いまよりましな世の中だったのかもしれない。いま、余分なコメントなどつけたら確実に馬鹿なことが生起しそうではあるからだ。

かかる世においては、よいことを待っているわけには行かぬ。「やってくる」のは罪であり、鶯の歌ではなさそうだ。わたくしが、青年期に女友達から教わったことと言えば、「かわいそうな自分をなぐさめる」と自分に「言う」ことである。実際に慰めていることはあったとしてもそれを口に出すやりかたは私にとっては論外であった。そしてその蜜はこの現代では案外効き目があるということも知った。これに味を占めると自分ではなく他人が言っても蜜とかんじる。だからわたしは人を慰めるのもあんまりいいことだとは思えないのであった。他人からの言葉だってナルシズムの原因なのである。

我々の社会は、自らに対して蜜ばかりを要求する。ある高名な社会学者が鈴木敏夫との対談のなかで、団塊の世代には戦後責任があるんだ、そんなことを予想もしてなかったがみたいなことを言っていた。予想もしてなかった、は嘘だと思う。戦争責任も戦後責任もあるし、現在に対する責任があるのは自覚されていたはずであって、予想もしてなかったみたいなことを言っちゃうのが無責任だ。さすがに予想はしてたに決まっているからだ。しかし、そういう風に人を責める人はいないだろう。無責任は蜜として存在している。

では、国民国家は我々にとって今後、蜜となり得るのであろうか。ウクライナ出身の日本国籍の人がミス日本になったということで議論になっていた。近代において、日本的なものというのは、イメージに過ぎなかったというのは簡単だが、――どれだけこれに対する研究が積み重ねられてきたかみな知らんわけではないだろう。また、小林秀雄ではないが、我々に親しみというものがあり、しかもそれを記述できるかのかみたいな問題は残り続ける。我々が、誰かが「日本的」という言葉を発したときに、そこにある様々な親しみの存在を想起しないようになっているとすれば、いよいよ我々はみずからの文化を失っているということであろう。われわれにとって、文化は血や遵法とちがってアイデンティティにはなりえない。文化は結果としてはノイズである。その生産の現場(=風景)が勝手に想起されることが細い線として我々の肉体と繋がるに過ぎない。しかしこれがないと我々はたぶんその線を家族とか仲間に限ったものと考え、その線は血や妥協という黴を生やすことになる。


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