★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

東アジア反日武装戦線の人と家族問題

2024-01-30 23:36:57 | 文学


四方を囲むトイレの壁があわただしい外の世界からあたしを切り取っている。先程の興奮で痙攣するように蠢いていた内臓がひとつづつ凍りついていき、背骨までそれが浸透してくると、やめてくれ、と思った。[…]あたしから背骨を奪わないでくれ。生きていけなくなる。あたしはあたしをあたしだと認められなくなる。冷や汗のような涙が流れていた。同時に、間抜けな音をたてて尿がこぼれ落ちる。さみしかった。耐えがたいさみしさに膝が震えた。[…]推しのいない人生は余生だった。

――「推し、燃ゆ」

この時期、宇佐見りんの「かか」を学生に読んでもらってレポートを出してもらうんだが、比較的よい意味で男女ともに似たような読みがでてくる。案外、「誤解」を与えないような書き方をしているんだなと思うし、いわゆる「同世代」「同時代」というのはそういうことかとも思う。よく傍証につかわれる同時代言説みたいなものは、たぶんこれとまた別なんだと思わざる得ぬ。文藝評論家のかいた「かか」論と学生の読みはどこかしらちがうニュアンスあるからだ。

源氏物語のぬりえほしいなあと思っていたら(――別に、義母が京都で源氏物語の栞を買ってきてくれたかわいい)、コンビニに既に売ってた。まことに資本主義はすごいといへよう。宇佐見りんなら、――いや言うはずはないが、勢いあまってぬりえのない人生は余生だとも言うのであろうか。むしろ、若い頃から余生を本当に送ったのは、桐島聡みたいな人であろう。二十代初期に運動をやって、警察におわれて人しれず偽名で働き癌で亡くなる直前に桐島であることを告白した。推しみたいな存在があることは、爆弾闘争をやるうえで桎梏である。推しの居るファンというのは、推しの存在に遠くからも近くへも自由に接近し、ネット上でもたとえそれが偽名を名乗っていても人目に晒されている存在でなければならない。やはり、これは公に生き続ける生き方だ。ネットが匿名性を拡大したことはたしかだが、公的な領域は拡大してしまったのである。

人は言う、――有史以来の我々の悪行は、いずれ復讐されぶん殴られることを前提になされてきたし本当はいまもそうだろう、だから、暴力的な復讐がほぼ禁じられた世界では悪行自体もこぶりになるのではなかろうか。――なわけねえだろ。ますます公的暴力が許された世界に我々は住んでいるのである。

桐島氏にとって独身生活は必須だった。他方で、我々娑婆の多数派にとってもそうであろうか、自由を確保するために。いや、そうともいいきれないのだ。我々は、もはや、自分の発言が公的に許されるか許されないか判断されない対人間の空間をもつために家庭を持つべきかもしれない。そういえば、むかし、知り合いに自称ナンパ師が居たが、かれはなんか経験を積めば性の転換をおこすみたいなところを期待してたところがあるようだった。それは私に対してだけの発言だったのかも知れなかった。もしかしたら、宮台真司氏なんかも遊ぶことで性が転換するみたいなものを求めているのかも知れない。彼の言う性にダイブする、シンクロするみたいな感覚のことである。しかし、そんなに頑張らなくても、長く同居してれば性の役割は洗濯物干すレベルになってゆくにちがいないのだ。これは、ありえない性の転換よりも容易で現実的な、性の消滅・昇華である。そしてそれは、ネット上の二項対立馬鹿喧嘩とは別の次元に存在する。勝ち負けのない存在の世界である。しかもそれは無常であり、「大人」の頑張りを要請する。

ホリエモンでさえ確か、世の中無常なのが真理なんでがんばりますみたいなこといってたのに、ネットでは、武装戦線の人が勝った負けただと馬鹿馬鹿しい争いをしている。どうでもいい。勝っても負けても無常に我々は死ぬ訳だ。そもそもだいたいわしらはおおかた何かに負けてるわけである。今日も、かわいい雀に庭の何かを食い逃げされたし。――わたくしが家庭では、負けが負けににならないというのはそういうことだ。

桐島氏らの連続爆破事件の頃って「昭和枯れすすき」の頃である。――貧しさに負け世間に負け、われらは死ぬか生きるかしかしリア充、みたいな曲だった。以前、書評に書いたことがあるが、ファシズムを真似してみようみたいな実験授業があって、そこで「ユダヤ人だ」の代わりに「リア充爆発しろ」とカップルに集団でいう試みがあった。今思えば、リア充を否定するとファシズムに本当になるんじゃねえかな、という気がする。半分以上冗談だけど、リア充として逃げるやつと単独で逃げる奴と、現実的にどういう違いが生じるのだろう。連合赤軍のリーダーは微妙なかたちだがカップルみたいな感じだった。「バトルロワイヤル」もカップルの逃亡劇だったな、そういえば。――結局、ファンタジーだったということであろうか。

今日は学生運動と吉本隆明について講義したわけだが、こういうのは、あるていど時間が経たないとできないという感じがした。吉本の予想したものがどうなって、それをどう他人が反芻して、一通り終わってからでないと。桐島氏の事件に対する反応もひととおり出そろって分かったこともあった。「マチウ書試論」て、ちょっと誤解していた。対幻想の「共同幻想論」の角度から見過ぎてたのである。


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