墨子の政論は是の如くであるから、勢として人世の最上權力者の上に「天」といふ者を立てなければならぬ。そこで墨學では「天」といふものを立てる。「天」は「兼愛兼利」である。天意に順ふを「義政」と爲し、天意に反くものを「力政」とする。上は天に、中は鬼神に、下は人民に利するものを聖王と云ひ、然らざるものを暴王といふとする。「政」は「正」であるとする、「義」は「善政」であるとする。義は「天」より出づるとする。天子の貴き所以は「天の意」を奉ずる故であるとする。是に於て墨學は少し宗教じみる。天は民を愛する厚きものである、堯舜禹湯文武は天意を奉じたもので、それで天の賞を得たものであるとする。兼愛は「天志」である、獨り我が「天志」を以て儀法と爲すのみならず、先王の書、大夏の道に於て然るあるなり、と斷じ、天志は義の經也と斷じてゐる。天志を規矩として世に臨まんとしてゐる。上帝鬼神は天子より庶民の上に存してゐるものとする。帝と鬼は義の體であり、兼愛其物であるとしてゐる。こゝは大に基督教的信仰に近い。從つて天地間の現象は有意義のものであり、天の褒美、天の刑罰が存在してゐるものと認めてゐる。從つて祭祀は無意義のもので無いとしてゐる。
――幸田露伴「墨子」
考えてみると、日本では権力が堯舜みたいな存在を起点に持ってくる気がなかったのはフシギというかなんというか。。兼愛説、有命(運命)論批判や節約志向をとくると、――現代的に言えば、みんなで仲良く自己実現でコスパで、となんか使えない気がするのだ。やはり「天」は必要だったのか。しかしこれを安易に人にしてしまうと日本の天皇みたいになりかねない。
大学の講義中に鍋をやったとかいうニュースがあり、たぶんあのお方(関西の音楽学教授)の講義ではと思ったらほんとにそうだった。しかしまあ、わたくしはむしろ、鍋の最中に講義を始めるようなたちである。天がない以上、自由はせいぜい双方向であるべきだ。むかしわたくしが学生との鍋の最中、言文一致の歴史について講義し始め、まったく私語がなくわたくしもつかれたら食べればよいし、学生はずっと食べてたはいアカハラ。
そういえば、天下の民衆派、「訂正の哲学者」東浩紀氏が、スポーチ報知にまともなインタビュー記事が載ったとか言っていたので、みてみた。報知といえばジャイアンツである。本文では、東浩紀氏を「どこかくまのプーさんを思わせる」と言って懐柔していた。天下の批評家を、巨人ファンに取り込もうという陰謀は許せない。いますぐ中日スポーツは、東浩紀の特集を組み、断然コアラに似ていると「訂正」すべし。天がないのだから、せいぜい出来るのは「訂正」だけだ。
「訂正」といえば、学生運動は途中でネーミングで負けたと思うのだ。連合赤軍の前あたりで学生スポーツに「訂正」した方がよかった。そうすると、いまでも「スポーツやったことのないやつ、資本論を読んだことない奴、まじで危機感もったほうがいい。ぼそぼそしゃべってんなよ。世の中理不尽よ、違う?」とかいってまじでオルグ成功である。(陰キャラは「生物としては負け組」 鉄道系人気YouTuber、ネット賛否の同業発言「スポーツ経験ない男はモテない」に私見)――ちなみに、部活に入ったことのない奴、それこそがお前がモテない理由、といわれていちばんもやもやしているのは、吹奏楽部とか管弦楽部とかの連中ではないか。ランニング腕立て競争社会監督から怒鳴られ、みんな同じなのにスポーツでない。
で、そのもやもやがおおい我々のなかには、訂正の代わりに、ダイナミックに何かに「回帰」したがる連中がいる。最近も、西洋系思想学者の日本回帰がよくあると聞いた。しかしやつらはもともと英語や外国語が出来て日本を起点にしていたのではない、どちらかといえば日本へ侵略しに帰ってきたと言うべき。真に日本回帰しているのは、我々のような日本文学に溺れていたやつが、ポストコロニアルだなんかとにかぶれてやっぱりやめたと言うやつである。どちらにしても、天意を懼れぬ輩であることは確かだ。だいたい朔太郎でさえ、日本回帰してもその路は悲惨な放浪であり孤独と寂蓼が宿命だといっておるのに、日本回帰して元気になってどうするのだ。