★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

うみやそらとも見えわかぬ

2022-02-20 23:51:54 | 文学


空や海うみやそらとも見えわかぬ 霞も波も立ち満ちにつつ

こういう歌は一見深いように見えるが、実際は波も霞も空や海が区別つかないとしたらアホとしかいいようがない。区別がついているから区別がつかないと言っているに過ぎない。しかし、こういう事情も含めてまったく普通の出来事である。

根本的な区別の感覚というのは、もっと別の感覚である。例えば、朝、目の前に10本の気持ち悪いものがもにょもにょうごいてたのだが、自分の指だった。こういうことは定期的にあるよな、5歳ぐらいからあったように記憶している。ある種の乖離の感覚である。わたしはわりと怪獣映画が好きなんだが、なぜかというに、彼らには尻尾があり、彼らが尻尾をどう意識しているのか見ててすごく面白いわけだ。シン・ゴジラなんか尻尾がほぼ別の生き物みたいだったわけだし、さすがだ。

怪獣映画は、乖離的な感覚によくあっている。

この乖離の感覚は、結局、そのあと元に戻った感覚にも違和感が残るから、わたしのようなタイプは物事の同一性とか、言行一致みたいなものにこだわるようになるような気がする。最近は、SDGズとかグローバルサステナビリティとかマルチスピーシーズとか言いたい方は多いわけだが、わたしなんか、そういう主張とおしゃれな食事の乖離を許せない。まずは虫を食えと

そろそろわたくしもうどんに蝗のトッピングを試してみようかしらん。

結局は、田舎の感覚は一則多のようなものを要求するのだ。宮澤賢治は農業のことも鉱物のことも岩手のこともイーハトーヴのことも仏教のことも考えていてマルチだ何だといわれるが、わたくしの祖父だって小学校の国語の先生やりながら農家をやり、後年は地元の蚕産業?の経営の研究所やってたし、こういうタイプは田舎には多いんだよ。宮澤賢治はそのなかである種「出世」した人なのである。

安部公房は宮澤賢治を評価していた。で、箱男とか棒とかユープケッチャの話はもはやマルチスピーシズ的な世界に近づいているわけである。「カンガルーノート」なんか、彼の「銀河鉄道の夜」なのである。彼は農村的なものを嫌っていて、自分が〈都市的〉な人間として育ったと言っているが、怪しい。やはり彼は「田舎」もんなのではなかろうか。


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