★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

居石神社を訪ねる2019(香川の神社1-2)

2019-08-11 19:51:19 | 神社仏閣
初心に帰って居石神社にゆく。二年前にここを訪ねたとき猛烈な熱波だったので、今日は夕方に行くことにします……




本殿


名物のさざれ石

宮本百合子は、「修身」という51年の文章のなかで、「君が代」を歌わせようとする教育を批判する前提として

信濃教育会教育研究所が、小学生の行動について父兄が問題だと考える点を調査したら、「無作法」各学年を通じて七〇%、「根気がない」三年七六%、六年七三%、「理窟をこねるが実行力がない」各学年四二%そのほかだった。青少年の育ってゆく精神によりどころを与えることが必要だということは誰のめにも明らかになっている。

といった見解から出発している。ピチピチした子どもの心にとって「君が代」はふさわしくない、というのである。信濃教育研究所が調べた小学生はわたくしの親の世代なはずだが、まったく今の子たちとおんなじである。昔から子どもは「不作法」で「根気がなく」、「理屈はこねるが実行力がない」のであった。もっとも、これは長野県の特徴かもしれない。理屈はこねるが実行力がないとはまさにわたくしのことである。

それにしても、「君が代」がさざれ石の如くとは、やはり変わった感覚だと思うのである。

『源氏物語』にはむかしから、「もののまぎれ」というテーマが読まれてきた。作中の三つの密通事件のことで、皇統の乱れこそがこの話の中心だということである。(本居宣長の「もののあはれ」はそれに反発して生じた。)そして、それは、現在の、源氏物語が「反万世一系」(三谷邦明氏)を狙ったものであるという説にまで至っている、わけであるが、――「もののまぎれ」だからこそ、逆に、にもかかわらず結果的に乱れないこと、それが「もののあはれ」なんだとか強弁することの方が、この国ではよくやられていることではある。41年、保田與重郎の「日本文化の独創性」(『近代の終焉』)なんか、日本の文化の模倣性を脆弱性とみなす気持ちは、「自信」とか「気宇」とかによって大国の「俤」に変貌するに違いないみたいな主張を繰り広げている。――そりゃまあそうかもしれんが、変貌しないうちから、そういう気分に浸るのは、一種の「バカ」なのではないだろうか。


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