って狂気をはらんでいる気がする……
亮太郎 昔から、あの村では、村で一番の何々つていふ具合に、いろんな名物を数へ上げて、それを事毎に噂し合つたもんだ。村で一番の金持が何処の誰、村で一番の年寄が何処の誰つていふ、それをまた、子供達までが聞き覚えてね。ずゐぶん滑稽な話さ。僕なんか、小さいくせに、その頃村で一番の美人だつたお初さんといふ娘を見に、そつと、その家の庭へ忍び込んで行つたもんだ。もちろん、一人でぢやないよ。(間)今ぢやもう、そんなことを問題にしなくなつたらしいね。世間が広くなつたんだ。(間)村で一番の栗の木つていへば、だから、その時分は、相当自慢の種さ。どうして笑ふの。だから、今ぢや、自慢にもならないつて言つてるぢやないか。(間)君は、今度、僕の家つてものを見て、がつかりしたらう。
あや子 また、そんなこと……。
――岸田國士「村で一番の栗の木」
「……ね……そうして不良少年らしい顔立ちのいい少年を往来で見付けると、お湯に入れて、頭を苅らして、着物を着せて、ここへ連れて来るのが楽しみで楽しみで仕様がなくなったの……もっとも最初のうちは爪だけ貰うつもりで連れて来たんですけどね。そのうちに少年の方から附き纏って離れなくなってしまうもんですから困ってしまってカルモチンを服ましてやったのです……そうして地下室の古井戸の中から、いい処へ旅立たしてやったんです。ここの地下室の古井戸は随分深い上にピッチリと蓋が出来るようになっていて、息抜きがアノ高い煙突の中へ抜け通っているんです。妾が設計したんですからね。誰にもわからないんですの。……でも貴方にはトウトウわかったのね……ホホホ……モウ随分前からの事ですからかなりの人数になるでしょう……御存じの家政婦も入れてね……ホホホホホ……」
私は見る見る血の気を喪って行く自分自身を自覚した。タマラナイ興奮と、恐怖のために全身ビッショリと生汗を流しながら、身動き一つ出来ずにいた。
これに反して相手は一語一語毎に、その美くしさを倍加して行った。
――夢野久作「けむりを吐かぬ煙突」
「戦後史証言プロジェクト 第5回 教育 “知識”か“考える力”」を、録画しておいたので、この前観たのだが……、まあ感想は面倒くさいので書かない。
「成人式」がいつものように荒れているとかニュースでやっていた。まあ、あれです。平等が確認される場所というのはなかなかないのだ。
「東京無国籍少女」という押井守の映画があった。これを観ると、荒れる成人式などというものが寧ろフィクションであるという感じがしてくるが、実際はこの映画のほうがフィクションである。宮台真司がこの映画を論じていた文章を読んだが、――彼の言うことは分かるような気がするんだけれども、肉体の復権ともいうべきこの映画をみて、現実での戦闘に覚醒したように感じる我々が、いろいろあってまた「敗戦」などの覚醒を起こさなければいいなと思う今日この頃である。
別に、我々は平和ぼけしていても、夢を見ているわけではないのだ。覚めている状態が今である。
我々はいづれも機関車である。我々の仕事は空の中に煙や火花を投げあげる外はない。土手の下を歩いてゐる人々もこの煙や火花により、機関車の走つてゐるのを知るであらう。或はとうに走つて行つてしまつた機関車のあるのを知るであらう。煙や火花は電気機関車にすれば、ただその響きに置き換へても善い。「人は皆無、仕事は全部」といふフロオベエルの言葉はこのためにわたしを動かすのである。宗教家、芸術家、社会運動家、――あらゆる機関車は彼等の軌道により、必然にどこかへ突進しなければならぬ。もつと早く、――その外に彼らのすることはない。
我々の機関車を見る度におのづから我々自身を感ずるのは必しもわたしに限つたことではない。斎藤緑雨は箱根の山を越える機関車の「ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山」と叫ぶことを記してゐる。しかし碓氷峠を下る機関車は更に歓びに満ちてゐるのであらう。彼はいつも軽快に「タカポコ高崎タカポコ高崎」と歌つてゐるのである。前者を悲劇的機関車とすれば後者は喜劇的機関車かも知れない。
――芥川龍之介「機関車を見ながら」
シューマンのピアノ協奏曲第三楽章が三拍子であると今頃気付いたのだが、それはともかく、日本は過去の栄光に縋っているという意味でロシアとか北朝鮮に近いのはもちろん、もっといろいろにているかもしれない。この前小林節がうちの大学で講演していた時も「アベちゃんはキムさんに近い」と言っていたけれども、このことは単に民主主義を解しないということではなく、もっと深刻な類似かもしれない。私自身を考えてみても、なぜちゃんと読めてもいないドストエフスキーに惹かれ、露西亜音楽が好きなのであろうか。
日本人は、なぜ英語をあまり喜んで学ばないのであろうか?本当は、アメリカの文化があまり好きではないのではないか。
今後、印度や中国が覇権を握った場合、案外、過去の日本において埋め込まれた文化的な何かが力を発揮しはじめるかもしれないのだが、その場合にもただ待っていてはやはり日本は文化的属国であろう。
やっぱり一つでも重要な作品を残しておくしかないのではないだろうか……
「私は、気狂いになりそうだ!――ともかく、運搬車へ乗って下さい。只今、N駅からの電信に依ると、疾の昔に着いて、と言うよりも、そこで恐るべき衝突事故を起してる筈の73号が、まだ不着だそうです!……事故は、途中の線路上で起ったのだ!」
で、私達は、早速二番線に置かれてあった無蓋の小さな運搬車へ乗込んだ。
やがて線路の上を、ひと塊の興奮が風を切って疾走し始めた。が、駅の西端の大きな曲線の終りに近く、第二の屍体が警官の一人に依って見張られている地点まで来ると、急に喬介は立上って車を止めさした。そして助役へ、
「73号は、此処の亙り線を経て、下り一番線から下り本線へ移行する筈だったんですか?」
「そうですとも。そして、勿論そうしたに違いないです」
――大阪圭吉「気狂い機関車」
・北朝鮮で水爆実験か?……どこかの国の大学入試で、「日本人にとって、マグニチュード9.0の地震+原発壊れた事件と、北朝鮮の水爆(マグニチュード5.0)のどちらが危険なのか?日本の民主主義の程度を考えて論述せよ」という問題を出していただきたい
・A氏「米国があらゆる手段を用いて日本を防衛するとの確固たるコミットメントを再確認した」……「おまえは俺が守る」といっている男がDVしているイメージです(個人の印象です)
・T氏「トリクルダウン待ってる方が間違い」……?米騒動とかをすすめているのか、この人は?
・東京オリンピックのファンファーレだかテーマ音楽が、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」以上の名作だった場合にのみ、わしは断固決然と東京五輪を支持するぞ。
・明日の公開講座で、リフェンシュタールの「意志の勝利」をちょっと扱うんだが、まだ何を言うか迷っている。
音楽について勉強不足で、死去したブーレーズについてちゃんと語れないのが悲しい。人間ちゃんと勉強しておかないと、無駄に歳を重ねても嫌なものだけでなく理解不能なものまで増えてしまう。音楽や文学はそりゃ個人的に楽しめりゃそれでいいのかもしれない。いや、違う。我々は他人とコミュニケーションする生き物であり、音楽なり文学が非常に高度なものになっていた場合、それがどんなものか理解しようとする必要があるのである。しかし、その理解をする方法について、ラテン語を解する者だけがそれを解する式のやり方に限界があったというのが、重要である。ブーレーズもジョイスも石川淳も何もかも、みんなが母語の頭で触れる必要がある。それが文化の豊かさを生むので、わたくしが常々ナショナルなものから目を背けてはならないと言っているのはそういう意味である。大学が、専門学校になってしまうと、当然グローバル化のために英語や中国語で授業をやるべきだから、そんな機会は失われてしまう。
ブーレーズが現代音楽だけでなく、マーラーやブルックナーまで演奏して人気者になっていったことの評価はいろいろあるだろうけれども、ブーレーズの演奏を聴かなければ、音楽が「知」であることに気がつかなかった人は多いのではないだろうか。音楽家、音楽学者だけが分かっていればいいのではない。理解の程度はいろいろあっても、少しは理解する必要があるのである。それで我々はようやく近代以降の「人間」になれるのではなかろうか。それは多くの人にとっては「国民」化を潜らなければ無理だったし、これからも多分無理である。しかも、言うまでもなく、その理解には、きちんとした学習の後の、理解の異なる人間とのおしゃべりが必要だ。解釈の多様性を言い訳に、自分の理解だけを正当化し理解できない側面を抹殺しようとする方向に向かう人の大量発生を防ぐためである。
http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/0050/womanact/#top
活躍しそうな人間を、すっとこどっこいが足を引っ張っている。「みんながいいところあるよね教育」は、そのすっとこどっこいを調子こかせてしまった。それぞれの個人が違っているのは当たり前だが、だからといって「みんな違ってみんないい」とはならないのも当たり前ではないか。小学校の教育の方便として教師がそれを言うのはあり得るが、社会においては、みんなの良いところ悪いところを指摘するのは本当は容易ではなく、果てしない価値に関する論争に巻き込まれることを意味する。そういや、学会で、「今日は興味深い発表をありがとうございました」という社交辞令をやってから質問に入る習慣が広がってきているが、こういうものこそたちが悪い上から目線の価値判断と言うべきである。勝手にレフェリーせずにさっさと質問に入るほうが、相手に対して丁寧なのではないか?
そういえば、フェイスブックで「いいね!」とかいうボタンがあるが、「イイね!」「いいか?」「いいっ!」「ええ、よくってよ」「異議なし!」「いい気もする~」「よい気がしないでもない」「グッドジョブ」「いいねはよくない」、「きれいはきたない」「者ども!」「恋の始まりは晴れたり曇ったりの4月のようだ。」「ルークわしが父親だ」「嘘だー」など、開口一番口にしてこそ効き目がある言葉を抑圧するのは、明らかに「よくない」。
まあ要するに、社交辞令や極端な判断は褒めるにせよけなすにせよ暴力だということである。問題は、そういう極端な言葉ばっかりがやりとりされる風潮が広がると、極端でない言葉まで極端に解釈する馬鹿、いや、すっとこどっこいが続出するということである。
女性の活躍応援団が、全員(たぶん)男である、上の神奈川県のそれに対して、「全員男やないか!」というつっこみを抑圧したとしても、何かじわじわと笑いがこみ上げるという点で、「女性の活躍」→「いいね!」よりも「いい」かもしれない。が、女性の活躍を応援、しかも「団」(群れてる男は最低ね)、という言い方がそもそもいやである。このおじさん世代がもつ「応援団」のイメージからしても、絶対にこいつらは何もしないどころか、いままで女性の足を引っ張ってきたことを反省もしないであろう。私は、「応援団」といえば、どちらかというと、どおくまんの漫画しか思い浮かばないので、ある意味まずいのであろうが……
教師の体験からすると、女の子の方が全体的に、というか、根本的に賢い印象を持つのは私だけはあるまい。その女の子がおかしくなっていくのは、思春期に、猿並みの男に惚れたりしてレベルを下げてしまったりするからであろうか。体が小さい私からいうと、男の体のでかさはそれだけで女性を心理的に抑圧しているに違いない。抑圧に慣れると人はその相手に惚れたりするものだ。違うか……
男たちは、いままでも女性を確かに応援はしてきたのである。しかし「自由」は許していないのである。「一億総自由人化」が「いいね!」。そうでないと、女性はまた、以前のように、活躍することによってますます主体的に奴隷になってしまう。言うまでもなく、男にも全く同じことがいえる。
活躍しそうな人間を、すっとこどっこいが足を引っ張っている。「みんながいいところあるよね教育」は、そのすっとこどっこいを調子こかせてしまった。それぞれの個人が違っているのは当たり前だが、だからといって「みんな違ってみんないい」とはならないのも当たり前ではないか。小学校の教育の方便として教師がそれを言うのはあり得るが、社会においては、みんなの良いところ悪いところを指摘するのは本当は容易ではなく、果てしない価値に関する論争に巻き込まれることを意味する。そういや、学会で、「今日は興味深い発表をありがとうございました」という社交辞令をやってから質問に入る習慣が広がってきているが、こういうものこそたちが悪い上から目線の価値判断と言うべきである。勝手にレフェリーせずにさっさと質問に入るほうが、相手に対して丁寧なのではないか?
そういえば、フェイスブックで「いいね!」とかいうボタンがあるが、「イイね!」「いいか?」「いいっ!」「ええ、よくってよ」「異議なし!」「いい気もする~」「よい気がしないでもない」「グッドジョブ」「いいねはよくない」、「きれいはきたない」「者ども!」「恋の始まりは晴れたり曇ったりの4月のようだ。」「ルークわしが父親だ」「嘘だー」など、開口一番口にしてこそ効き目がある言葉を抑圧するのは、明らかに「よくない」。
まあ要するに、社交辞令や極端な判断は褒めるにせよけなすにせよ暴力だということである。問題は、そういう極端な言葉ばっかりがやりとりされる風潮が広がると、極端でない言葉まで極端に解釈する
女性の活躍応援団が、全員(たぶん)男である、上の神奈川県のそれに対して、「全員男やないか!」というつっこみを抑圧したとしても、何かじわじわと笑いがこみ上げるという点で、「女性の活躍」→「いいね!」よりも「いい」かもしれない。が、女性の活躍を応援、しかも「団」(
教師の体験からすると、女の子の方が全体的に、というか、根本的に賢い印象を持つのは私だけはあるまい。その女の子がおかしくなっていくのは、思春期に、猿並みの男に惚れたりしてレベルを下げてしまったりするからであろうか。体が小さい私からいうと、男の体のでかさはそれだけで女性を心理的に抑圧しているに違いない。抑圧に慣れると人はその相手に惚れたりするものだ。違うか……
男たちは、いままでも女性を確かに応援はしてきたのである。しかし「自由」は許していないのである。「一億総自由人化」が「いいね!」。そうでないと、女性はまた、以前のように、活躍することによってますます主体的に奴隷になってしまう。言うまでもなく、男にも全く同じことがいえる。