★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

岩田神社を訪ねる2(香川の神社161-尊霊と猫)

2017-12-25 02:28:30 | 神社仏閣
岩田神社の境内社さんたち。



金刀比羅神社。大物主神



天満神社。菅原道真どの

 

平成7年の碑文に曰く、

「厳玉神社は、昭和八年十月、現在の弦打小学校校庭の一隅に忠魂社として建立されていましたが、昭和二十年この地に移転修築されたものであります。御祭神は郷土弦打を今日の姿にまで発展させるに力を尽くされた日露戦争から太平洋戦争に至る戦役で一身を祖国に奉げられた百五十九柱の英霊が合祀されております。」

ここの記述は遠慮がないな。戦争がなかった方がよかったのではないだろうか。池造るとか道造るんならわかるんだけれども……

「建立当時、神さびて荘厳であったお社も、風雪五十年その尊厳を維持することが難しいまでに老朽化しましたので、この度、地区住民各位の誠心を結集して改築したものであります。ここに経緯を記して後世に伝え、多くの人々が厳玉神社の尊霊に対して永く敬虔の誠を奉げられんことを願うものであります。」

むしろ古くなって「神さびる」ような気がしないでもないのであるが……



「讃岐宮合祀・武内貞子命迎霊」



不明……



さっきの猫をなつかしく思い出す。












岩田神社を訪ねる1(香川の神社161)

2017-12-25 00:28:53 | 神社仏閣
岩田神社は飯田町。昔の飯田郷(鶴市、郷東、飯田、檀紙)四ヶ村の産土神。藤の花で有名なところである。ここで藤の花が咲くと、香川県のニュースになるレベル。



鳥居の手前の右手には巨木が。デカい木の所に神社が出来るのか、神社の木がデカくなるのか。





岩田社でござい

 

鳥居もデカいが木もデカい。

 

まちがえた。

 

狛犬に角が生えていたので、興奮して猫を混ぜてしまいました。申し訳ありません。鳥居の前に可愛さで人間の気を惹こうという根性のねじくれた猫がいたので……。そういえば、ここは、鬼無に近く、桃太郎神社にも近い。犬は桃太郎側であって、鬼はあっち側である。なにゆえ、犬と鬼が混ざってるのかっ。あっ、もしかしたら、この場面の結果ではないか……

「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
 桃太郎は桃の旗を片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、犬猿雉の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好い家来ではなかったかも知れない。が、饑えた動物ほど、忠勇無双の兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛に鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴に鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺す前に、必ず凌辱を恣ままにした。……


――芥川龍之介「桃太郎」


あっ、間違えた。犬じゃなく猿だった……。最低ですなあ、桃太郎一味は。GO TO HELL。たぶん犬野郎も、どさくさに紛れて鬼に犯罪を犯していたのです。ともかく、この子孫が寝返っていなければ、この神社は鬼側の神社に違いありません。



悪い人間と獣はお断りっ

 

境内の中にも猫がいた。



立派な随神門。



 

最低ですなあ、桃太郎一味は……



手水舎の立派さに境内の大きさが比例する気がしてきました。

 

岩田神社は鎮座800年を超えるらしいのであるが、この「孔雀藤」も樹齢約800年らしいのだ。なんと2メートル近くも花がたれ下がるというからびっくりである。なんとわたくしの身長以上にたれ下がる花。さすがに800歳も生きてると身長も伸びるものである。藤の花は四月から五月ぐらいであろうか。はやく見たい人は、勝手に検索してみて下さい。見飽きるほど出てきます。

ふじなみや おと無き風の よりどころ

梅下庵主人


明治一三?年の句で、石碑が建っていた。梅下庵主人て、岡田魯人のことであろうか。この人は、義仲寺を復興した人として知られている。

 

社務所とかも大きい。

 

灯籠

 

拝殿

 

拝殿とすべてが渡り廊下で繋がっているのがイイね。

『香川県神社誌』に曰く、

「治承二年(紀元一八三八)八月の創祀。」

あれっ、案外新しいではないか、と思ったが、これは皇紀であった。西暦だと1172年ですね。

「社領二石二斗ありて国守松平氏の寄進する所とす。」

いっぱい持ってたなあ

「崇徳天皇當国綾松山に遷らせ給ひし時、唐渡左門雅基従ひて當国に来る。」

なにっ、崇徳院関係あったか

「雅基の先は後漢霊帝四世の孫高貴王なり。高貴王丹波国に移り、其の裔康頼丹波宿禰の姓を賜ひ醫博士となり、子孫世々典薬頭たり。故を以て雅基崇徳天皇に従ひて讃岐に来る。」

その薬係のかいなく、崇徳院は天狗にならせたもう




天皇陛下在位六十周年紀念……崇徳院、許して……

「天皇崩御の後、雅基の子助左衛門尉信宗飯田郷に移住し當社を創立す。勧請導師は長尾郷寶蔵院朝算なり。信宗が宅址今猶飯田にあり。」

えっ、あるの?どこだろう……

「建仁元年、二年、承応元年、正安二年、貞和五年社殿の修造あり。貞治二年三月五日細川頼之参拝して親しく奉幣せり。應永十年八月修造ありしが、應仁元年兵火に罹り、同二年再建す。
天文十九年十一月二十日火災ありて本殿、拝殿等焼失せしが、祠前の大藤はその災を免る。」

すごいな、藤の花……

「この藤樹飯田の藤とて名あり。天文二十一年二月飯田領主飯田主水願主となりて再建し、同年九月西坊を建立して社僧となす。(西坊は寛永元年蓮香寺と改称す)」

これですな、わたくしより背の高い坊さんがいたあそこですね……

「天正十九年霜月飯田領主築城三郎左衛門尉領主となりて再営(全讃史に築城三郎左衛門始祠之とあるは誤)次で慶長十六年正月造営あり。寛永七年雪月築城氏の後裔上村半右衛門尉良信願主となりて再営す。正保四年願主唐戸興次右衛門再建、寛文四年願主唐渡興五右衛門尉等修造、寛文八年九月命によつて各末社の合併あり。(享和元年頃各へ還遷せり)其の他享保十五年本殿再建、寶暦四年拝殿、神楽殿、随神門、御旅所の再興、明和三年、天明二年の本社再建、天保十年本殿、拝殿の大修造ありて天正以降の棟札を存せり。弘化二年八月松平頼顕自筆の扁額及び永年神燈雪洞の奉献あり。明治五年一月郷社に列せられ、大正二年九月二十日神饌幣帛料供進神社に指定さる。昭和六年三月三日御鎮座七百五十年祭を執行せり。」

波瀾万丈であるが、たくさん記録が残っててイイですね。ところで、香川県というのは、明治維新以来20年間ぐらい、愛媛や徳島に合併させられたり独立したり非常に安定しない県であったが、こういう神社の歴史は一見して一貫するように見えるのが素晴らしい面白いですね。藤の花が生き続けていることだし……



神鏡であろうか。高松市の神社で、ここに鏡があるのは初めてである。ここに、桃太郎やきびだんごに釣られた連中は正体がばれるという訳であろう。

彼が何故なぜ発狂しなければならなかったか。いや、それよりも、彼はガラス玉の内部で何を見たか。一体全体、何を見たのか。そこまで考えた私は、その刹那、脊髄の中心を、氷の棒で貫かれた感じで、その、世の常ならぬ恐怖のために、心の臓まで冷たくなるのを覚えました。彼はガラス玉の中にはいって、ギラギラした小電灯の光で、彼自身の影像をひと目見るなり、発狂したのか、それともまた、玉の中を逃げ出そうとして、誤まって扉の取手を折り、出るに出られず、狭い球体の中で死の苦しみをもがきながら、ついに発狂したのか、そのいずれかではなかったでしょうか。では、何物がそれほどまでに彼を恐怖せしめたのか。
 それは、到底人間の想像を許さぬところです。球体の鏡の中心にはいった人が、かつて一人だってこの世にあったでしょうか。その球壁に、どのような影が映るものか、物理学者とて、これを算出することは不可能でありましょう。それは、ひょっとしたら、われわれには、夢想することも許されぬ、恐怖と戦慄の人外境ではなかったのでしょうか。


――江戸川乱歩「鏡地獄」



拝殿の上に獣あり。



獣あり。



本殿。すばらし

 

捨てられたものあり。

賽神社を訪ねる(香川の神社160)

2017-12-24 17:06:56 | 神社仏閣
飯田町。



『香川県神社誌』によると、祭神は、「八衢比古神、八衢比売神、岐神」。道祖神的な三神である。

寛文年間にこのあたりに唐戸與五右衛門尉友常と言う人がいた。飯田村の耕作整理、水利灌漑、道路整備、道路に沿っての水路整備、代官道(定木神社の前にある道のことである)をつくり、友常池を改築と大活躍。でその屍を葬り地蔵尊を建て、更にその西側にその霊を祀って「幸の神」と称え奉祀した。地蔵と神社の関係を考える上でも興味深い話である。神社に、政治家や地元の名士の記念碑が立っていることがあるが、いまでも同じようなことをやっているということだ。

高地蔵と蓮香寺を訪ねる(香川の地蔵28)

2017-12-24 14:46:56 | 神社仏閣
ほぼ岩田神社にくっついている感じの位置に「高地蔵」あります。



高い、デカい。したがって、わたくしより背が高い。台座には文政五年出生となっている。なっとくである、わたくしより先に生まれているからデカいのであろう。

 

何度見てもわたくしより背が高い。

 

檀紙の旧家が牛の供養のため建立したらしい。(http://tadashimatunaga.web.fc2.com/bangaireijou/kagawa/file02/101_111.htm

その南側には、蓮香寺の観音堂がある。この寺は、岩田神社の別当寺であった。神仏習合時代、別当はその神社の中で一番えばってよいことになっている僧であり、その下に宮司がいたのである。大学の中に役人がいるようなかんじであろうか。そうだとすると、実際にえばれたかどうかはわからない。明治の神仏分離政策は政府の暴力としてとらえられることも多いが、現場の雰囲気としてはわからない。案外、下からの叛乱としての意味合いもあったのかも知れないと想像する。まあ、こういうことは、その中に入ってみてもよくわからない類のことである。



中をちょっぴり拝見。

定木神社を訪ねる(香川の神社158)

2017-12-23 23:24:37 | 神社仏閣
三宝さんこと、定木神社は飯田町。



あやうく見落とすところであった。



「三寶社」とあり。鳥居は元治元年九月のもの。



「紀念」の碑あり。

『香川県神社誌』に紹介されている由緒とだいたい内容は同じように思われたが……。すこしづつ違っているようだった。『神社誌』によると――、ここの地は昔から古墳だったが、天保三年に向山八百蔵なるものが隣地を耕してその塚の石を溝の踏み台にしたところ、急に痛がりだし危篤状態に。氏神社僧に神卜を頼んだら、それは「御年神」を穢した咎めであるとでた。びっくりした人々がその石をみてみると神像が描いてあったという。

古墳の石だもの……、そんなこともあるわいな

ともかく、村人は驚いて小祠を建てたというのである。



本殿。





村の人も驚いたんだろうねえ……

茶臼塚の小祠を訪ねる(香川の神社157)

2017-12-23 23:20:50 | 神社仏閣
茶臼塚は飯田町。古宮社の東。ここらの城主、飯田氏を祀っているらしい。



平成六年に建てられたものである。傍らに「飯田城」の案内板あり。茶臼塚の説明の所はなぜかペンキで消されていた……

「飯田城は、定木に所在していたというが、その遺構を確認することはできない。飯田城の城主で飯田主水正は、貞治元年(正平十七、1362)に細川頼之が讃岐の宇多津に上陸した時、一宮の大宮司らと共に馳せ参じて陣に入った。その後も、頼之に従って伊予の河野氏討伐に加わっている。」

すばやいっ

「永正五年(1508)には飯田右衛門督が香西氏に従って山田郡の三谷城攻めに参加した。また、天正十年(1582)、土佐の長宗我部元親が香西氏を攻めた時には、香西氏にくみして伊勢の馬場で奮戦するなど、その重鎮としての働きをしている。」

がんばれっ

「天正十五年(1587)、生駒親正が讃岐の領主になった時には飯田伝右衛門が城主で、200石の禄で召し抱えられている。」

がんばった!


古宮社を訪ねる(香川の神社156)

2017-12-22 23:18:32 | 神社仏閣
 

飯田町。灯籠は昭和二十九年と正面にあったが、裏には明治四十三年と書いてあった。



この神社は、『香川県神社誌』には「飯田神社」として載っている。

「古老の伝ふる所によれば、往古岩田神社此の所に鎮座ありき。依りて古宮と称す。昭和三年十一月改築。」

祭神は、応神天皇。確かに、岩田神社も応神天皇である。



「五大神」。

光明寺近くの灯籠を訪ねる(香川の神社155)

2017-12-22 23:02:23 | 神社仏閣
飯田町、光明寺の近くの交差点近くに古い灯籠がある。



何か美味しそうな色をしている。



「定木總氏子」によって、「明治**年八月」に建てられたと書いてあった。



176号線側には、仏さんもいた。右手を指して一宮に行けと云っている…。

よくよくみてみると、この灯籠と右指し地蔵の間にある細い道は弦打南部の古いメインストリートで、「代官道」というらしい。灯籠も右差し地蔵もこの道路のためのものだったのであろう。

清水神社(若宮さん)を訪ねる(香川の神社154)

2017-12-21 23:45:23 | 神社仏閣


若宮さんこと清水神社は飯田町。地図で見ると、浄願寺山頂、龍王水分神社、淤加美神社、ここ清水神社、定木神社、岩田神社などが弧を描くように配置されていて、その弧の延長線上に勝賀山頂がある。そのようにみえた……



拝殿





『香川県神社誌』によると、祭神は、弥都波能売神。いわゆる水波能売命で水神である。イザナミがカグツチを生んで死ぬ間際に土の神と水の神を生んだ(というか、彼女の尿から生成された)のだが、ミズハノメは後者である。



本殿

淤加美神社を訪ねる(香川の神社153)

2017-12-21 14:10:38 | 神社仏閣


田んぼの中にこういう空間がある時には、神社や墓がある可能性があり……



淤加美神社は飯田町。ちょうど龍王社水分神社と清水神社の間ぐらいである。淤加美神というのは『古事記』の表記で、それは『日本書紀』では龗神と書く。つまり龍王社水分神社とおんなじ神だということだ。『香川県神社誌』も、祭神を「天水分神 国水分神 高龗神 闇龗神」と龍王社水分神社と同じ記載になっている。





農村地帯の神社をまわっていて思ったんだが、農村は天気によってまるで風景全体のトーンが違う。やはり晴れていなくては風景が輝かない。街中にいると色の違いがそれほどでもないが、農村では全く違うのである。曇ったり雨が降っている時の薄暗い感じは、やはり街中とは格段の違いがある。日本人が天気を社交辞令にするようなったのはそのせいかもしれない。




青木神社を訪ねる(香川の神社152)

2017-12-20 21:40:12 | 神社仏閣
青木神社は飯田町。向かいにコープの共同購入センターあり。



昭和八年に弦打村青木の農事改良組合が香川農会から表彰されたときの記念碑。農村地帯には、こういう記念碑が神社のなかにあることがある。



「五大神」。社稷五大神か?この辺は、地神塔よりもこれが多いかな……。五角柱の地神塔が徳島発だとすると、東の方が多いということになるが、確かにここは西讃よりである。西讃にはあまり地神塔はないと聞いたことがある。



『香川県神社誌』によると、ここの北に或る貴人が住んでいた寺院のあとがあって、彼の墓が王墓神社の祭神であるそうな。先日見た、古墳の主である。で、その天皇一族の彼に仕えていたのが、重藏坊なる者で、彼の霊を祀ったのがここらしい。


「里人今猶重藏坊荒神と称す」


で、昭和一〇年に再建したらしいのだが、それにしても、坊主なのか荒神なのか、もうどうでもいいや……

『神社誌』には祭神を、以下の神々としている――天照皇大神、少彦名命、三年神(大年神、御年神、若年神の意なるべし)、豊受比売神、波邇二柱神(埴安彦神・埴安姫神の意なるべし)大国主命

明見神社(弦打神社)を訪ねる(香川の神社150)

2017-12-19 23:07:32 | 神社仏閣
明見神社は鶴市。『香川県神社誌』には、「弦打神社」として載っている。



『神社誌』に曰く、

「一に明見神社と称し、舊真言宗弦張山徳栄寺の乾の方の守護神として奉祀せられしと傳ふ。」

このちかくに「徳栄寺」があります。地図で見ると、この神社が丁度北西(乾の方)にあるのがわかる。

「大正十二年十月社殿を再建す。」

とあるが、いまは下のような建物が建っている。



たぶん境内に集会所をつくったパターンである。



集会所に映っている……



明見というからには、本当は妙見神社ではないかと疑われるのであるが、その証拠に、『神社誌』によると祭神が「天御中主神」。妙見信仰では「妙見菩薩」のことなのだが、神仏分離で妙見菩薩の代わりに天御中主神を名乗らざる得なくなったのである。もっとも、『神社誌』には、

「飯尾宗祇の歌に「弦打の山より出でし月影は弓はりとこそ云ふべかりけれ」(扶木集)とあり、明月この里を照らすにより明見と云へりと。

と書いてあった。



20日に本殿を集会所の裏に見つけた。