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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

石清尾八幡宮を訪ねる8(香川の神社109―北門編)

2017-12-18 17:14:16 | 神社仏閣
北門を眺めにきました

 

そういえば、さっき『日本のコピーベスト500』という本を注文しようかと迷っていたのですが、なぜかというと、

『日本のコピーペースト500』だと思っていたからです。

コピペ500連発とは、日本の文化がよくわかっているすばらしい本だと思ったんですが、アマゾンで思いっきりエンターを押しても全く反応ないのでよく見たら、コピーベスト500だったのです。

コピベからコピペへの意識の流れで、80年代以降の日本の説明がつくというものです。ベがペに変化するのはそんなに自明のことでしょうか。わたくしにはそうは思えません。

 

浦島と修羅雪姫

2017-12-17 23:09:23 | 文学


齊藤昇氏の訳で「リップ・ヴァン・ウィンクル」を読み直したら、全然記憶と違っていたのでびっくりしたのだが、わたくしが昔読んだのは森鷗外の「新浦島」であった。同じ話である。――それにしても、これは日本の浦島と違って、未来の故郷に飛んでしまった老人がたどり着いたのは、小言で責め立てる妻が死去して、美しく成長した娘だけがいる世界であり、しかもイギリスの支配から独立したアメリカであった。彼がたどり着いた現実からみれば、本当の自分が生きていた過去の現実の方が悪夢なのである。

考えてみると、日本の浦島は、一気に老人にならないと居場所がないほど孤立してしまうわけであって、世代は違うし、世の中の冷たさは相変わらずで、という未来はろくなものではない絶望がひどいお話である。だから竜宮城の刹那の楽しみには時を忘れてしまっていたのであろう。浦島ははじめから何が起きているか本当は知っているとみてよいのではなかろうか。われわれもそうである。

梶芽衣子主演の「修羅雪姫」というのが好きだが、北米版のDVDがよかった。

「白雪姫」も恐ろしい話ではあるのだが、「修羅雪姫」は、主人公の女の子は生まれる間から修羅の道を歩いていた。母も自分の未来も地獄なのである。これに比べると、この話のパロディである「キル・ビル」なんかすごく前向きな話である。「修羅雪姫」の第二作目の最後のシーンは神社の境内であった。同じ時間から逃れられない日本の運命を表現しているようだった。

そういえば、昨日うつらうつらしていたら、アランドロンの「復讐のビッグガン」なんかが、記憶の底からよみがえってきたが、これも、娘も愛人も敵も死んでアランドロンだけが生き残るいやな結末なのだが、最後に妙に明るく、娘か愛人か知らないが――女子とアランドロンが海で戯れているシーンで終わる。バックで朗々と歌声を響かせているのは、アランドロン。ここには、ただのアイドル映画ではない何かがある――ような気がした。

Ave formosissima

2017-12-16 18:09:11 | 音楽


香×大学合唱団の第61回定期演奏会に行きました。来年のゼミ生などが出演するからです。

わたくしも昔、小学校で合唱部だったので、一応思い入れはあるのだ。だいたいにおいて、舞台にあがる女性は本物の三割増しぐらいに美しくなっているからこれもいいのである。つまり、今日歌われたカルミナ・ブラーナの「Ave formosissima」というかんじである。運命の女はミューズである。


第一部

・「ノスタルジア」より「花」。

春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂のしづくも 花と散る
ながめを何に たとふべき


……で、何に喩えよう?


・「花に寄せて」より「ねこじゃらし」

星野富弘の詩。「思い出の向こう側から 一人の少年が走ってくる あれは白い運動靴を 初めて買ってもらった日の 私かも知れない」わたくしは、思い出の向こう側から喘息の発作が出そうで怖すぎる。

・「みやこわすれ」より「はっか草」

「「はっか草のような人になりなさい」 私はついに そのような人には なれなかったが」

なんだこれ、この曲泣けるじゃねえか……。演奏もよかったね。やっぱ、親子の絆はお年頃の皆さんには実感があるんだねえ――シクシク

・「五つの願い」より「子どもは……」

【合唱の】三善晃【神】作曲。相変わらず、演奏者の心に全く寄り添わない三善晃の嫌がらせのような難しさ。うまく歌えたら昇天してしまいそうなので、みんながんばって歌ってしまうのである。最後に「石の腕の中ですら」と言っているが、谷川俊太郎も何か怖いわ。

・「もうひとつのかお」より「愛」

【合唱の】三善晃【神】作曲。相変わらず、演奏者の心に全く寄り添わない三善晃の嫌がらせのような難しさ。うまく歌えたら昇天してしまいそうなので、みんながんばって歌ってしまうのである。

――と思ったら、三善晃ちゃうわ。鈴木輝昭、三善の高弟だ。谷川と三善系のオーラで勘違いしちゃったわ……

歌詞に曰く、

「そこですべての名は溶けあい、ひとつの名になる」

えっ、ちょっと何言ってるかわかんない

第二部


・「ライオン・キング」、「リトル・マーメイド」、「アナと雪の女王」。

ありのーままのー すがたみせるのよ~
これでいいのだー これでいいのだー
天才バカボンバカボンぼん

第三部


・カルミナ・ブラーナ

うわっ、第三部が下ネタや


今日歌われていたのは、1、2、9、10、24、25である。わたくしも昔吹奏楽でやったことがあるが、やはりこれは歌詞がないとダメである。

「運命にはまじでさからえないね 運命の女神から痛い目にあってしまったよ なぜならここで輪になって おどらにゃそんそん イケメン男子よ 早く来い はいわかりました わたくし世界征服はあきらめて 英国女王と××××したい いやまじであんた美しい おお 運命の女神ありがとう」

今日の歌詞をつなげるとこんな感じになる。まったく、学生は禁欲して勉学に励め、といっても無理なので、もう勝手にしてください。さようなら。

丸亀街道の金比羅燈籠を訪ねる(香川の神社149)

2017-12-16 17:08:49 | 神社仏閣


丸亀街道の金比羅燈籠は飯田町。本津川のほとり。

案内板に曰く、

「天正一六年(一五八八)生駒親正は、高松に築城し、慶長二年(一五九七)に高松の常盤橋を起点に五街道をつくり、その一つが丸亀街道で、兵庫町・郷東を通り、中津の道標(右――金比羅道、左――一の宮道)を左手に一里塚・一本松・三軒家を通り抜け、鬼無・丸亀に通じていた。」


すべての道は高松に通ず……と思ったら、

「この街道を通り、金毘羅宮への参拝客が江戸中期から特に多くなり」

すべての道は金比羅に通ず。結局、金比羅のあまりの人気で寛政九年に上の燈籠ができたのであった。

「金比羅参りは一生に一度は……」とかいう感じで、お伊勢参りと並び、信仰並び陥落歓楽とか商業で、人生の憂さ晴らしを行う人々が多かったのであろうとわたくしは推測する。いまでも、トシをとってくると一見もっともらしい理屈をくっつけて人生のフィナーレを飾るために制度改革や威しに狂奔する人たちが跡を絶たない。確かに、一所にプライドだけふくれあがったおやじを置いておくと、若者を虐めるばかりでなく、文化や人間関係までもぶち壊しかねないので、お遍路とか金比羅参りなどに追い出すというのはいい手かも知れない。一億総活躍だ、人生百年間だ、第二の人生だとか、――頭が働かなくなった人間の無自覚に過ぎない。わたくしは、老いや衰えの問題をあまり舐めない方がいいと思う。最近の、ニュース番組の劣化も、単なる民度の劣化だと思っていたが、ただ老人に合わせているうちに頭がおかしくなっただけかも知れないのだ。われわれは常に一人で考えているのではない。他の頭とともに考えている。だから十分、若者たちもつられて呆ける。どうもいまはそういう時代のような気がする。

なんだか、老人を馬鹿にしているような言い方になってしまったが、無論社交辞令である。これは年齢の問題というより思想の問題なのだ。我々の文化においては、そもそもだんだん若返ろうみたいな欲望を、かなり若い頃から(――たぶん、幼稚園のうちから)持つことを強いられている。どうも日本の神社を回っていて思うのであるが、そこにはあんまり死への恐怖がない。むしろ死を忘れようとする欲望を感じる。しかし死への恐怖がわれわれを駆動するのは普遍的な現象だと思うのである。――つまり、小学生になったら一気に老けてしまうべきだ。いつまでも母親にかわいがられようとして、幼稚になりゃ喜ばれると思い、老人になっても、相変わらず不良時代、いや赤ん坊のような啖呵の切り方を目指してしまうのである。これが、日本の老害の正体である。すなわち、本質的にこれは老害ではなく、日本の「生」文化の害だと思うのである。

それなのに、われわれは、どうせしなければならぬことも大してないのに、まだまだ希望がある夢があるとか、だらだらした生き方を他人に強制している。二十を超えたら、夢とか希望とか小学生みたいな語彙を捨てていただきたい。

大暮神社を訪ねる(香川の神社148)

2017-12-16 16:48:35 | 神社仏閣


どうみても何かあるとしか思えないあれである。大暮神社である。



素人目に見ても古墳の雰囲気がする。

『香川県神社誌』によると、明治五年にできた神社らしい。

「古老の口碑によれば当地は往古より王墓、又は王暮と称し丘陵の地形を為し、神櫛王の後裔の古墳の由を傳ふ」


神櫛王(皇子)は、牟礼にお墓があるお方である。景行天皇の息子で讃岐國造の祖で巨大な魚とかを退治したとかいう。清水神社にも由縁があった。こんなところにも子孫が埋められていたか……。まあ、景行天皇は居たかどうかわかんないんで、あれなんだが――

「四方水を廻らし車塚となりゐたるも、後池を埋めて耕地となせり。」


お堀もあったのね。いずれにせよ、祀られているのは、「大国主命」「少彦名命」「神櫛別命」。最後だけ人間。



皇紀二千六百年記念



階段を上ってゆく。





右手には、「水分神社 遙拝所」



上の方が削れているが、「**(社稷)五大神」に見えるね……



「王墓 安政三年」。ここは、「王墓」とも「大墓」とも言うらしい。「大暮」も、もしかしたら書き間違ったのであろうか……。読み間違えたのであろうか。墓はさすがに無気味なので暮にしたのであろうか。ちなみに、『香川県神社誌』には、「香川県史」を引用して、「大暮」は「王暮」の転訛だと書いてある。



丸石が三つ詰めてある。

 



上を見上げる



帰ります。

城王神社を訪ねる(香川の神社147)

2017-12-16 13:06:12 | 神社仏閣
鶴市町の築城城跡に神社が作られている。弦打案内のパンフレットみたいなものを見たら「城王神社」としてあった。



 

狛犬さん。注連石とともに昭和一〇年とあり。



社稷五大神!



本殿。たぶん、くくりつけけられている古びた石が本体であるぞ……



エイリアンの卵にしか見えない

案内板に曰く。

「戦国時代の飯田郷三城の一つで下飯田城ともいった。当時の城は土塀囲いの屋敷で、」

農家の方が、でかい塀をめぐらした屋敷をおっ立てるのは、昔々からの念願だったのであろう……。城主になりたかったのである。

「築城氏は、長く勝賀城主香西氏に仕え、[…]三代目城主清左衛門は天正十年、土佐の長宗我部氏の軍と是竹の伊勢神宮の馬場で戦いました。」

がんばれ、長宗我部をやっつけろ、神社たちを守れ!!

「その三年後に豊臣秀吉による四国征伐で香西氏は滅亡し、戦国時代も終わりました。」



「天正十五年、讃岐の大名として赤穂から入部した生駒親正に清左衛門は二〇〇石で召し抱えられました。」




稲荷大明神を冬訪ねる(香川の神社34-2)

2017-12-15 23:56:12 | 神社仏閣


悲しそうな目をしている

 

狛犬さん、じゃなかった狐さん。



安政五年。



『香川県神社誌』に曰く、

「寛保三年七月二十六日高松藩主松平頼恭の創建にして石清尾八幡神社境内に鎮座せしが、延享元年十二月二十六日中野天満神社舊鎮座地に遷座し藩主より社領十五石を寄進せらる。」

なんと、ここは、中野天満神社があったところなのである。



なんやて!

「代々藩主の崇敬厚く屡参拝あり。三代物語に「今公寛保三年始立 之八幡宮側 延享元年十二月遷 今地社領四石七合置 社人及坐」、高松藩記に「稲荷社十五石」とあり。昭和九年社殿を改築す。」




確かにあったよ改築記念碑。昭和九年十月。

 



なんだか、峰山の方に登る入口みたいです。怖いから引き返します。



境内の植物も怖いです。冬なのに、なんなのこの生き生きとした感じは……



旗に包囲されている稲荷さん。



尻尾がいきなり元気だよ。

石清尾八幡宮を訪ねる7(香川の神社109――薄曇りのお昼編)

2017-12-14 13:45:59 | 神社仏閣


延齢坂という坂からの入り口もあるのであった。ここからは拝殿にショートカットで一気に行けるのである。延齢とかいいながら、ここから車でびゅんと行ってしまったら逆に足腰が弱る気がしないでもないのであるが、気にしないことにする。実際、これからは運動より金があるかないかで死ぬか生きるかが決まる世の中で――。開かれた神社だねえ……。いっそ「氏子中心の神社」とか「地域に貢献、石清尾八幡」とか世間にアピールしてはどうであろう。横の大学は最先端を走っているので、もう学生中心とか地域貢献とかいうミッションインポッシブルを掲げてかなり経つ。おかげでどんどんいろいろなものが下がっておるが……



この神社は、壕まであるな。さすが、開かれていると見せかけて、ちゃんと神域を守っているのである。象牙の塔というものをまねしたに相違ない。

石清尾八幡宮を訪ねる6(香川の神社109――朝に再び編)

2017-12-13 10:06:52 | 神社仏閣


おはようございます。石清尾八幡宮大好きですっ




延宝三年の燈籠

 

朝なので爽やかな狛犬さん。ちなみに、夜の姿は↓

 



神明社。今日は見えている……



若宮神社も見えている……



後ろに万里の長城みたいなものがある。城かっ



神明社の後ろにも神様を発見する。ちゃんと賽銭をあげている人がいるようだ。お金が置いてあった。



ここからの眺めはいいね。



本殿を臨む。





陽が昇ってきたので憂鬱になってきた

 

下から上拝殿をのぞむ





絵馬堂に大正期のものあり。ここには、だいたい記念写真とかスポーツ大会優勝記念の額が多かった。水無神社の方が内容が立派だな……。

    

なんだか碑もたくさんあるんだな……。この前、石碑における文学のテーマみたいな話を博物館でした時に思ったんだが、――文学碑というのはそれ自体あんまり意味はないけど、こういうのもないともっと駄目になりそうだからまあいいかという感じである。いまだに、像とか記念碑とかは政治的な力をかなり持つのも事実である。ネットの言説10000よりも一つの記念碑である。というより、ネットがなくても昔からそうなのであろう。ただ、われわれの文化は、碑を氏神の印みたいに扱い、いや、犬の縄張り行為のあれみたいなものとして扱い続けた結果、碑の持つ強烈なアイデンティティ確立の意味を忘れているような気がする。

本津恵比須神社を訪ねる(香川の神社144)

2017-12-12 13:31:07 | 神社仏閣
本津恵比寿神社は香西。



一番手前の注連石は明治45年。



鳥居の後ろのものは明治34年。

 

狛犬さん(昭和十四年)。

 

嘉永六年と昭和十五年の燈籠。



拝殿。



「賀茂大明神」とあり。『神社誌』にも「加茂神社」としてあった。

曰く、

「幸在町郷社宇佐神社境外末社。當社古くは恵比須神社と稱へられ往古より當郷に鎮座あり。香西記に、寛文年中一郷一社の命ありて郷内の小祠は悉く郷社に合祀せしが、當社は本津の浦恵比須と稱し、海辺の守護神の由申立てて寄宮とせざりし旨記されたり。明治十六年山王神社・加茂神社(字本津)を、同四十年熊野神社(字香西)を合祀の上、同年十月十五日加茂神社と改稱す。」


もうなんだかシラんが合体を繰り返している神社のようでございます。



もしかして、これは合体の証拠ではあるまいか……



表からは、この碑(皇紀二千六百年改修碑)にかくれておりましたが……。



本殿。



地神さん。(天照大神、忍穂耳尊、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊)

 

冬空になってきたねえー。センター★試験の季節ですね。

リップヴァンウィンクルの嫁はん、いや花嫁

2017-12-12 12:49:02 | 映画


まあ観とくかという感じで観たら、結構な傑作だった模様の「リップヴァンウィンクルの花嫁」。黒木華は新たな岩井俊二の脳内ミューズといったころであろうが、このひとは「小さなおうち」だったか?のお手伝いさんの印象が強くて、花嫁というより「嫁はん」と言った方がよい感じでイメージしていたが、さすが岩井俊二先生、三時間の黒木さんの大CMを撮った。すごい。

黒木さんを「日本的美人」みたいなくくりで世の中の空気を操作しようとしたそこのあなた

「あなたはん地獄に行きなはれ」


というか、岩井氏の映画の妙なところは、主役の女子がお人形さんみたいに撮られているにもかかわらず、妙に我々観客の鈍くささみたいなみたいなところが奇跡的に美しく出てきたような夢のような感じを体現していることである。この映画の黒木さんも、えーあっ えっと すみません、みたいな反応の人であるのであるが、きわめて我々に似ている。別に「不思議ちゃん」ではない、もっと我々に似ている。えーあっ えっと すみません、というあり方は一種の「世間」への絶望の表現なのであって、それがひょっとすると絶望自体が夢を見ることがあるかもしれないみたいな――そんな感じが我々の自意識に似ているのである。それが、もっと世間を泳ぎ切る自意識の形をとると、黒木さんをだましてCoccoさんに会うように仕向ける綾野剛みたいな詐欺師的キャラクターになる。二人は若い世代の象徴であり、われわれでもある。

だから、いつもこの人の映画は、人々の救済がテーマである。

Coccoが出ていたのもちょっとびっくりしたのであるが、このひとまだちゃんとしてたんだというか、もう行く末を心配するほどの歌声だったので……。この人の役は、ちょっと以前の女の人という感じだろう。この人が、死ぬ前に黒木華にしゃべっていた恐れがすごかった。それは、昔風過ぎてめまいがするほどの、――すなわち、金銭的なやりとりすべてが優しさのやりとりであるという夢である。これはある意味恐ろしいことである。そんなコミュニケーションをとっていたら人は大変だ。彼女がやっているAV女優とかの仕事はできなくなってしまう。一方、彼女は末期ガンなので、最後に黒木さんに優しさを送られて死んでゆくことを選べた。死が夢でもあることがあるのである。

わたくし個人は、この結末はいやだった。

八〇年代に青春時代を送った我々は、このように若い世代に優しく葬送されよと言われている気がしたからである。確かに、黒木華みたいな学生は大学にあふれている。われわれだってそんな感じになりつつある。綾野みたいな男もいそうだ。もっとも、あれほど鋭くはない男も多いので、男版黒木さんみたいな者が多い。

――絶望やら希望やらの混じったお人形さんのふりではないもっと直截な生き方があるはずである。実際、仕事はただするのではなく「いい」仕事をしなきゃならんのだから……