★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

キチョウ

2020-11-01 23:17:49 | 文学


が舞っていた。とまった。

ようやく体調が戻ってきたが、頭がもどらない。

この歌どもを、人の何かといふを、ある人聞きふけりてよめり。その歌、よめる文字、三十文字あまり七文字。人みな、えあらで、笑ふやうなり。歌主、いと気色悪しくて、怨ず。まねべどもえまねばず。書けりとも、え読み据ゑがたかるべし。今日だにいひがたし。まして後にはいかならむ。
十九日。日悪しければ、船出ださず。


海がよろしくないので、みんなで歌合戦まがいに詠んでいた。とそのときだれかが詠んだ歌がなんと三十七文字。思わずみんな失笑。歌を詠んだ人は不満げにぶつくさ言っている。――とここまではよい。しかし、このあとの貫之のせりふが凶悪で

「まねべどもえまねばず。書けりとも、え読み据ゑがたかるべし。今日だにいひがたし。まして後にはいかならむ。」(口真似しようと思うんですができませんねえ。書き留めておいたとしても、それをよめたものでもないでしょう。今日でさえ言いにくいんですよ、まして後日だとどういうことになります? で、とりあえず、19日は天候が悪いので船は出しません」

しるかっ(笑)

いまなんか、たとえ三十一文字に読めなかったとしても、逆に思いが込められているとかいうてクズのような作品までよなくてはならないのだ。大衆の怨みを思い知れ。

しかし、翻って考えてみるならば、わざわざ三十一にすら収められない者まで歌を詠んでしまうところが、「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」というわけで、たとえおもかしなことになったとしても、人間のなかに「やはら」ぐ何かを、「慰める」何かを、書いてないけど、はっきり申し上げて笑いを生み出すのが歌なのであった。学校教育の教室の諸君、これからもわたくし(紀貫之、いや女)をその読めたもんではない何かで笑わせてくれ……。

この怨みがドンナに深いか、お庭のくれないの花を見て思い知れ。紅の花が白く咲いているうちは俺の怨みが残っていると思えってそう云ったんだそうで……でげすから只今でもその焼跡に咲いておりますくれないの花だけは御覧の通り真白なんだそうで御座います」
「プッ……夏向きの怪談じゃないか丸で……どうもお前の話は危なっかしいね。マトモに聞いてたら損をしそうだ」


――夢野久作「白くれない」


確かに、「損をしそうだ」という話が、いまどき多すぎるのである。歌も引っ込む御時世だ。